饒舌-トーカティブ-

 遠藤周作の小説「沈黙」をマーティン・スコセッシ監督が映画化して、ちょっとした話題になっているようだ。

 まだ見ていないが、スコセッシ監督の映画はどれも面白いから、期待できる。
 おれが遠藤周作の「沈黙」を読んだのは数十年も前だが、おおまかなストーリーや印象的なシーンは覚えている。キリスト者ではないが、おれにとっては重く、強い小説だったのだろう。江戸初期のキリシタン弾圧の時代の話で、過酷な運命に置かれたキリスト者をなぜ(キリスト教の)神は救わないのか、沈黙しているのかという問いと、棄教がテーマになっている。
 よく知らないが、人間の悲惨に対する神の沈黙という問題はキリスト教の中では大きな問題で、教会では一応の答(保留も含めて)は用意されているのだろう。でないと、教会は成り立たない。一方で、日本で数少ないキリスト者として育った遠藤周作や、スコセッシ監督が惹きつけられるテーマなのだから、キリスト者の誰しもが得心できる答は出ていないのだと思う。
 で、ここからいきなりくだらないアイデアになって申し訳ないのだが、続編として「饒舌-トーカティブ-」という映画を作ったらどうかと思うのだ。続編というか、アテレコ版。DVDの音声解説みたいな、あんなやつ。「沈黙-サイレンス-」の映像を追いながら、神様が音声解説しまくるのだ。衝撃だろう。
 映画「饒舌-トーカティブ-」、2018年1月21日公開。うそ。

メリー・クリスマス、ミスター・ローレンス

 大島渚監督の「戦場のメリー・クリスマス(Merry Christmas, Mr. Lawrence)」を見た。

 前に見たのは大学生か、社会人になりたての頃だと思うから、おおよそ三十年ぶりである。そのときは、坂本龍一のテーマ曲は印象的だったが、ビートたけし乱暴さと坂本龍一の大根ぶりばかりが目について、あまり好きにはなれなかった。
 それが、今、見ると、いいのである。デヴィッド・ボウイもいいが、ローレンス役のトム・コンティの控えめだが丁寧な演技が素晴らしい。
 太平洋戦争の初期、インドネシアの日本軍捕虜収容所の話である。坂本龍一が収容所長、ビートたけしが現場を仕切る軍曹、デヴィッド・ボウイが捕虜になった英軍中佐、トム・コンティが同じく捕虜で通訳の英軍中佐である。
 図式的に単純化すると、ビートたけしは百姓的な善良さと残虐性を持ち、日本軍という組織の中でその残虐さばかりがもっぱら現れる。デヴィッド・ボウイ個人主義的勇敢さを象徴する英雄的人物(彼の有名な歌に“Heroes”というのがありますね)。坂本龍一は「日本精神」を頼る人物だが、デヴィッド・ボウイ個人主義的な精神に脅かされる。そして、トム・コンティは欧米的な個人主義と日本の文化を理解しようとする気持ちの間で揺れ動く、優柔不断に近いほどの曖昧な人間で、この曖昧さの表現、演技が実にいいのだ。
 映像表現、演技、ストーリーにはいろんな綾があって、おれは今回、やっとある程度理解できた。三十年前には何を見ていたのだろう。もっとも、まだ理解しきれない、あるいは気づきもしないところもあるかもしれず、そのいくつも重なっていくような複雑さと、鮮烈な映像が優れた映画だと感じた。

黄色い洟

 今日はいささか汚い話なので、その手の話題が苦手な方にはご容赦いただきたい。
 何かを人にたとえて考えてみることがあって、退屈しのぎになる。蝿でも電柱でもカーテンレールに引っかけたハンガーでも、「この人はどういう心持ちなのであろうか」と想像するのはなかなかに面白いものだ。
 先日来、風邪をひいていて、ようやく治った。もっとも別に苦しくはなく、最初の頃、少しふらついた程度だった。ただ、毎日大量の洟が出るのには往生した。それも、例の黄色いヘチャッとしたやつだ。眠っている間に鼻の中で乾燥すると、ゼリー状のおぞましい物体になった。
 あの黄色い洟というのは白血球などの免疫細胞の死骸なんだそうだ。外から攻めてきた細菌と抱き合って自分も死んでしまうらしい。なかなかの壮挙である。
 今回の風邪は苦しくなかったので、細菌の攻撃力そのものは大したことなかったようである。しかし、長引いたという点では持続力のある攻撃であった。おかげでおれの体内の、大量の白血球が戦争の犠牲となった。痛ましい。
 敵と刺し違えて死ぬんだから、特攻隊的であって、文字どおりの捨て身である。血気盛んでもあって、寺田屋の変だったか、池田屋の変だったか、「おいごと刺せ、おいごと刺せ」という具合だ。白血球は薩摩隼人なのだろうか。

神仏を信じること

 おれは若い頃、理屈っぽい嫌な野郎で、「神なんかいるわけがない」などとうそぶいていた。
 しかし、この年になると(先日、生誕半世紀を迎えた)、人間の考え(正しくはおれの考え)には限界があるとわかってくるし、またいささかこずるく立ち回ることもできるようになる。今のおれの神仏に対する態度はこうだ。
「神仏がいるかどうかはおれなんぞにはわからないが、神仏を信じると楽になる」。
 前にも何度か書いたけれども、おれはお不動様を信仰していて、近くの目黒不動には毎週参詣している。石段を登って、手水鉢で手と口をすすぎ、お賽銭を放って神頼みをすると、いくらかはしっかりした心持ちになる。しかも、お不動様は火を背負って、怒りの形相で、カッコいいのだ。
 仮想でもいいから、神仏を信じるのは助けになる。信者でないのに「メリークリスマス」とただはしゃぐのはちょっと抵抗があるけれども。

虫歯を治す薬

 先日、人と話していて、なかなか面白い設問に至った。

もしあなた(これをお読みのあなた)が虫歯を一発で治す薬と歯周病を一発で治す薬を発明したら、発表すべきだろうか? 発表すべきでないだろうか?

 もう少し細かく設定すると、それぞれ虫歯菌と歯周病菌を殺す薬で、副作用は特にないとする。
 さて、あなたはどうするのがよいだろうか。
 発表するメリットは簡単に思いつく。世の中から虫歯と歯周病の害を劇的に減らすことができるのだ。もし普及すれば、あなたは非常な名声と、誰かに騙されない限り、大変な富を得られるだろう。
 一方で、困る人や企業が多く出るのも間違いない。歯医者の仕事は入れ歯や差し歯などすでに歯を減らしてしまった人のサポートと、後は美的観点からの歯列矯正くらいしか残らない。ほとんどの歯医者がつぶれるだろう。ライオンのような口腔衛生のメーカーも倒産する可能性が高い。多くの失業者が出て、その人たちからあなたは大変に恨まれるはずだ。
 政府はどう対応するだろうか。農業の転作のように歯医者やメーカーに補助金を出すのは筋が通りにくく、難しいように思う。せいぜいのところ、副作用の確認など薬の許認可までのプロセスで時間を稼ぎ、歯医者やメーカーが転業する時間的猶予をつくるぐらいではないか。
 一番ありそうなシナリオは、うやむやのうちにあなたの作った薬が闇に葬られることだ。もしおれが歯科医業界のトップか口腔衛生メーカーの経営者なら、どんな手をつかっても潰そうと考えるだろう。たぶん、ゴルゴを雇う。
 さて、あなたは虫歯を一発で治す薬と歯周病を一発で治す薬を発表すべきだろうか? 発表すべきでないだろうか?

人類普遍の原理?

 若い頃というのは一般に社会経験が少なく、おまけに血気盛んであるからして、理屈に走りがちなところがある。老けてくると、なんやかやと体験してくるし、心身にいろいろとガタがくるせいもあって、経験というもののありがたみがわかってくる。
 いきなりなんだなんだという書き出しで申し訳ない。気まぐれで日本国憲法の前文を読んでいて、ちょっとひっかかった部分があるのだ。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。

 最初の文は例のリンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治」の日本語訳である。それはまあよい。
 ひっかかったのは二番目の文の「これは人類普遍の原理であり」というところだ。「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」ことは人類普遍の原理なのだろうか?
 歴史についておれには聞きかじり、読みかじり程度の知識しかないが、いわゆる近代に入るまで、世界各地各方面は「国政は〜」というのとは違う原理で動いていたようだし、今このときだって、違う原理で動いている社会は多いはずだ。それを「人類普遍の原理」なぞと言い切るのは、少々傲慢ではないか? 近代以前の人々は人類ではなかったのか??
 とまあ、血気盛んな若い頃なら考えたかもしれないが、今のおれはもっといい加減だし、関係各方面の事情も理解できる。つまりはこの序文が書かれた頃、「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」ことを「人類普遍の原理」ということにしておきたかったのであろう。虚構といえば虚構だし、約束事といえば約束事である。当時(1946年)、「そういうことにしておけ」ばうまくまわると考えた人がいて、今も「そういうことにしておけ」ばうまくまわると考える人は多いだろう。儒教の「孝悌は仁を為すの本」みたいなものでしょうか。
 憲法の前文はこう書き換えるのが正しいとおれは思うのだ。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これをワシらは人類普遍の原理ということにしておくのであり、この憲法は、かかる原理に基くものである。

イチョウの物語

 今年の秋は暖かいせいか、あるいは毎年こんなものだったか、東京ではようやくイチョウが黄色く染まり、散り始めている。
 イチョウというのはなかなか数奇な運命をたどってきた植物であるらしい。以下はWikipediaの記述をただまとめただけだが、よろしければお付き合い願いたい。
 イチョウ科は随分古くからある植物で、中生代(いわゆる恐竜の時代)から新生代にかけて世界中で繁栄したが、先の氷河期にほぼ絶滅した。今のイチョウイチョウ科の唯一の生き残りの種で、どうやら中国の安徽省の片隅でひっそりと自生していたらしい。それが11世紀はじめに宋の首都、開封に植栽され、その見事な黄葉が注目されたか、葉の形の面白さが気をひいたか、人間の手によって中国各地に広まっていった。
 日本にいつ輸入されたかははっきりわからない。確実な記録は室町時代の15世紀のものだそうだ。
 ヨーロッパには1692年、ケンペルが長崎から持ち帰った種子から広がった。街路樹や公園でよく見るので、何となく洋風なイメージもあるイチョウだが、ヨーロッパではそう古くからある植物ではないわけだ(日本でもそうだけれども)。
 かつて世界的に繁栄しながら衰微し、中国のごく狭い地域で命脈を保っていた。それがもっぱら「美しい」という理由から人間の手で広められ、再び世界的に繁栄している。なかなかよくできた物語だと思うのである。