インターネットの知情意

 時折、インターネットについて「集合知」とか「知の共有」がどうのという議論に出くわすことがある。
 個々の議論をどうこういうつもりも実力もないのだが、どうして「知」というテーマばかりが出てくるのか、ちょっと不思議ではある。
 人間の精神活動を「知情意」と分解してみるやり方がある。知は知性・知識、情は感情・情緒、意は意志。人間の精神活動は「知」「情」「意」の三つの側面から捉えてみることができるという仮説というか手口であるらしい(おれは詳しくないので、ここは曖昧に逃げておく)。もっとも、「知」だけの精神活動、「情」だけの精神活動、「意」だけの精神活動というのは存外に少なくて、多分にこのうちの二つあるいは三つの要素が混じり合って一つの活動になることが多いようだ。
 でまあ、インターネットだが、「情の共有」あるいは「意の共有」というテーマで語られることがあんまりないのはなぜだろうか。
 先刻ご承知の通り、インターネットであれこれやりとりされる具体的な情報は、腹が立つとか、楽しいとか、悲しいとか、あるいはどこそこで食べた料理が美味かった不味かったとか、「情の共有」であることがとても多い。一方、「意の共有」を「意志の共有」と捉えるとなんだか「励ましあって頑張って成功しよう!」という怪しげなセミナーみたいに見えるけれども、「意」を人の行動を促すものと捉えれば、道徳の話や「すべき」論は「意の共有」である。炎上なんていうのは「情の共有」と「意の共有」が入り混じっていることが多いようである。
 インターネット上でやりとりされる具体的な話題は「知」だけでなく、「情」「意」の共有が多い。ところが、「インターネット」「Web」という抽象的に俯瞰した話になると、なぜだか「知の共有」ばかりがクローズアップされるのだ。不思議ではないか。
 ところで、「知情意の共有」と言うと高尚な話に聞こえるけれども、もちろん、実際にはそうリッパなものは多くなくて、何がいくらで手に入るとか、楽して儲かる知識とか、あいつは嫌いだとか、誰それが不倫してけしからんとか、まあ、そういう手合いが大半を占める。そもそも人間はそうそう高尚な精神活動をしているわけではないから仕方がない。
 さらに「知情意」の「知」をいじって「痴情意」とすると、これはもうストーカーかポルノである。ますますインターネットっぽい。参った。