働くことと関係性と(2)〜グリーンのビラビラ問題

 前回の続き。

 前に書いたのは、仕事というのはお金を得るということが基本条件だけれども、どうもそれだけではないんではないか、ということだった。仕事を通じて人は他の人といろいろな形で関係を結ぶ。商品(モノやサービス)を通じて、お客さんとも関係を結ぶ。さらに商品は社会に波及効果を及ぼすから、お客さん以外の人とも関係を結ぶ。ごくごく単純化すると、こんなふうに表せる。

 なんでこんなことを書いているかというと、この頃、若い人達と話していて、おれの世代とは働くことに対する意識が変わってきているように感じることが多いからだ。環境、教育、少子高齢化等々、社会に対して何か意義ある仕事をしたいという人が増えている気がする。働く=お金を得る、ということよりも、何をできるか、何をしてあげられるかということに関心が移っているように思うのだ。やや大げさに言えば、自分の存在意義を社会において見出したいということなのだろう。いや、もちろん、人にもよるし、我々の世代にだって同じようなことを考えている人はいるけれども。

 さて、話を戻して、仕事を通じてどう関係を結ぶか、という話である。よい商品を作ることに携われれば、そのことから充足感を得られる。そういうとき、たいがいの人は「やったぜセニョール」と満足を得るだろう。これは言ってみれば、お客さんや社会によい影響を及ぼすことができた、よい関係を結ぶことができた、ということだ。仕事に対する満足感は高くなるだろう。

 さて、ここでひとつ問題がある。自分の携わっている商品にあまり意味を見出せないとき、どうなのか、ということだ。
 例えば、おれは「グリーンのビラビラ」と呼んでいるのだが、弁当によくプラスチック製のこういう間仕切りが入ってますね。

 専門用語では「バラン」と呼ぶらしい。で、おれ個人はどうもこのグリーンのビラビラに価値を見出せない。なくてよい、というか、ないほうがいいんじゃないかと思っている。バランを扱っている人たちには申し訳ないけれども、まあ、おれ個人はそう感じている。
 グリーンのビラビラを使う意味はわかる。弁当の中で食べ物と食べ物が接して味や香り、油や汁などが移るのを防いでいるのだろう。それを葉っぱっぽく作れば彩りになるし、弁当に笹をあしらうような感覚にも似せられる、とそういうことなのだと思う。
 しかし、おれ個人はなくてよいと思う。間仕切りは、必要なら紙なり白いプラスチックの板なりでただ仕切ればいい。弁当にグリーンのビラビラが挟まっているのを見ると、何とはのう、物悲しい気分になる。「ハーバード白熱授業」で聞きかじったアリストテレス風に言えば、グリーンのビラビラの目的とは、人に安いということの物悲しさを伝達することではないかとすら思う。
 まあ、グリーンのビラビラが世の中に必要かどうかという話は置いておこう。問題は、例えば、おれがグリーンのビラビラの会社に勤めていて、グリーンのビラビラに価値を見出せなかったらどうなのか、ということである。

 これはどうもお客さんや世の中とよい関係を結べていると言えなさそうだ。低コスト化するとか、あるいはグリーンのビラビラの機能が何で決まるのかは知らないがデザインに凝るとか、そういう形で商品に意義を持たせるやり方もあるのだろう。しかし、やはりおれには虚しさが付きまとう。
 いや、だからといって働くことの意義を全く感じなくなるいうことはない。なぜならば、職場方面の人々との関係性というものがあるからだ。

 もう商品には目をつぶって、自分の関わっている人たち、毎日職場で顔を合わせる人たちに対して何をできるかを考える、という方向もある。「尽くす」ことは可能である。また、もちろん、「給料もらえるなら何でもよい」という考えの人もいるだろう。

 しかし、やはり虚しさが残るようにおれは思う。

 そうなったとき、どうすればいいのか。おれには簡単に言えない。意義を見出せる商品を作るようジタバタしてみるとか、商品に意義を見出せる会社に移るとか、商品の虚しい部分には目をつぶって少しでもよい部分を伸ばすことに専念するとか、そもそも商品に意義を見出すだのお客さん(弁当食べる人も含めて)と関係を結ぶだのを考えないようにするとか、そこらは人それぞれの判断となるのだろう。これをお読みの方なら、どうするだろうか。

 どうも書くだけ書いてきて、袋小路に入って投げ出すような具合で、申し訳ない。ともあれ、何を通じて自分は誰とどんな関係性を結んでいるのか、と考えてみることは、自分の仕事を整理するうえで役立つんじゃないかと、おれはにらんでいる。