Twitterとクラと情報

 クラで交換するソクラヴァ(首飾り)、ムワリ(腕輪)は、祭礼の際に身に着ける装飾品だ。クラという交易は、実利を求めて行われるわけではない。実利を求めるのなら、命がけで何百キロも航海をする必要はなく、ただソクラヴァとムワリを手元に保管しておけばいいはずである。

 非常に単純化していえば、クラでは「交換」すること、交換するためにえっちらおっちらカヌーで航海する「過程」、そして交換を通じて「ネットワークを形成すること」に価値があるらしい。ここんところがTwitterに似ている。Twitterでやりとりされるメモ(情報)も、全てが無価値というわけではないが、実利的な情報は必ずしも多くない。また、みんながみんな実利的な情報を求めてTwitterをやっているわけでもない。ネットワークを作って何かを交換することに価値があるのだ。この場合、重点は、「何か」のほうではなく、「交換すること」のほうにある。

 高度情報化社会などと言われ、我々は情報の内容に価値があるように思っている。価値のある情報を得られるようになったことが進歩なのだと考えがちでもある。もちろん、価値のある情報も多いのだが、それが全てではない。むしろ、情報を「交換する」という行為のほうが重要であったりする。たとえば、家族や恋人や友達との会話を思い起こしてみていただきたい。たいてい話し合うのはたわいのない内容についてであって、「情報の内容」自体は、大して価値がないことが多いだろう。たいてい、我々はたわいないおしゃべりをする=「情報の交換」自体に、喜びを覚えるのだ。インターネットを通じたコミュニケーションにも似たところがある。

 人間というのは、やたらと「交換」を好む生物であるらしい。交換したものの価値ではなく、「交換」それ自体を喜ぶ性質がある。フェミニズムの人に怒られそうだが、結婚だって、元々は親族集団間の女性の交換であったようだ。対価として牛や羊を支払ったり。そういうふうにできているのだ。だから、インターネット史上に名を為したい人は、テクノロジー云々や情報の内容を考えるより、新しい交換の方法、快感を呼ぶ情報交換のやり方を考えるとよいのかもしれない。