きれいな子ども達

 街で子ども達を見かけると、きれいな子ども達が多いなあ、と思う。


 きれいといってもいろいろあるが、顔かたちがきれいというよりも、全体から受ける印象がきれいだと思う。


 肌が陶磁のような美しさというのだろうか。
 もっとも、「陶器のような美しさ」では、随分とデコボコして、うわぐすりが変な文様を作り、茶の湯の人やなんかが「いや、これはなかなか」などと感心してしまうから、ちょっと違うかもしれない。
 白磁のような美しさと表現するのが正しい。


 あるいは、着ているこぎれいな服の印象のせいもあるのだろう。


 わたしが子どもの時分は、あまり子どもの服など、かまいつけなかったように思う。


 何しろ、そこらへんの原っぱをかけずり回ってはキリギリスの脚を引きちぎったり、アリの巣穴に立ち小便して、突然のおしっこの洪水に大混乱するアリどもを見て、気分はカリギュラだったくらいだから、親からすると、服なぞかまいつけるだけ無駄だったのだと思う。


 入学式かなんかで、妙にこぎれいな服を着せられると、恥ずかしくてたまらなかった(照れくさいのではない。恥ずかしいのだ。この違い、わかる?)。


 まあ、わたしが空襲で一度灰燼に帰した安普請の地方都市の、住宅地と田んぼの中間地帯で生まれ育ったせいもあるのかもしれない。


 しかし、それよりは時代の違いのほうが大きいように思う。


 今の子ども達のきれいさは、どこか、儚く、かよわいきれいさのように感じる。


 今にも消えなんとする美しさ。


 街が清潔になり、滅菌が進み、生活水準が上がったせいもあるのだろう。野良犬もほとんど見かけなくなった。
 その一方で、抵抗力も弱まっている気がする。


 H.G.ウェルズの「タイム・マシン」に、エロイと呼ばれる人々が出てくる。80万年後の未来に住む種族である。


 男はとても美しい、優雅と形容してもよい容姿をしていたが、どことなくひ弱なところがあった。紅潮した顔は結核患者特有の繊弱な美しさを想わせた。
(……)
 この背の低い美しい連中には、どことなく信頼できる優しさと子供のようなあどけなさが感じられた。ぼくでもボーリングのピンを倒すように彼らの十人やそこいら投げ倒すことができそうであった。
(……)八十万年後の世界では、空中に蚊もいず、地上には雑草も茸もない。いたるところに果物が実り、甘美な花が咲き誇り、色鮮やかな蝶があちこち舞っている。理想的予防薬が発明され、病気は根絶されてしまった。未来世界で、ぼくは伝染病にお目にかからなかった。後で詳しく話すことになると思うが、腐敗という現象さえなくなっていたのだから。


(「タイム・マシン」、H.G.ウエルズ作、橋本槇矩訳、岩波文庫


 もっとも、エロイ達は決して理想郷に住んでいるわけではなく、その裏にはオソロしい真実が隠されているのだが、ネタバレになるので、ここでは書かない。


 今の子ども達の儚い美しさは、エロイの“結核患者特有の繊弱な美しさ”に近いように思う。
 経済か環境か何かが激変したら、ちょっと無事でいられないのではないか、という感じがする。


 もっとも、野っぱらをかけずりまわって、モンシロチョウにライダーキックをお見舞いしては地面と激突していた馬鹿なガキ(おれ)も、今では青息吐息で、生きているだけで大したものだと自分で自分に拍手してしまうくらいだから、まあ、あまり関係ないのかもしれない。


タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

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「今日の嘘八百」


嘘七百八 一方で、今の子供は、保存料に対する抵抗力が大変に強く育っているそうである。