ATOKという日本語変換ソフトを使っているのだが、「いなかもの」と打つと、「田舎+物」と変換する。
「田舎者」という単語を登録していないらしい。
このソフトは、基本的に差別用語とされるものを登録してなくて、「つんぼ」「おし」「めくら」などを変換しない。
「火の粉が降りかかるのはかなわんので、ウチの製品は出荷時にそういう言葉を登録せえへんことにしちょるんでごわすたい。使いたいっちゅうんなら、各人で登録してつかあさいでおますなあ。責任はとらんのよくさだんべ」と、どこの言葉やらよくわからないが、そういうことなのだと思う。
試しに「いなかっぺ」と変換してみると、「稲カッぺ」だそうで、妙に味わい深い。
秋の午後遅く、少し赤みがかった光のなか、稲を刈るカッペを想像して、しばし郷愁に浸ってしまった。
もちろん、嘘である。
ドラマの「タイガー&ドラゴン」だったか、落語をドラマ化したシーンで、大店の奉公人を「地方出身者の誰それ」と呼んでいて、驚いたことがある。
おそらく、「田舎者」という言葉を嫌ったのだろうが、古典落語世界に田舎者は存在しても「地方出身者」は存在しないだろう。
与太郎を「馬鹿」とは呼んでも、「知的障害者」とは呼ばないのと同じだ。「知的障害者の与太郎」。台無しである。
放送コードに引っかかることを避けたのだと思うが、せいぜい「田舎出の誰それ」とでもすればいいものを、野暮なことである。
「田舎者」にはおおよそ、2つの意味があると思う。
ひとつは、地方出身者に近い意味で、田舎で生まれ育った人、あるいは田舎から来た人、という意味だ。
例によって、世界各国の事情は知らないが、日本では、大都市のほうがその他の地域より格が上という漠然とした通念があるから、「田舎者」という言い方には、本人が使うとやや卑下したニュアンス、他人が使うとやや馬鹿にしたニュアンスがつきまとう。
いつだったか、電車に乗っていたら、近くで突然、喧嘩が始まった。小柄なみすぼらしい服の男がサラリーマン風の男に「いなかもんだからって、馬鹿にするな!」と食ってかかっていて、驚いた。
この場合の「いなかもん」は、今書いたような意味の「田舎者」だと思う。おそらく、小柄な男はコンプレックスを抱えていたのだろう。
もうひとつは、その土地(もっぱら、都市)の流儀や不文律、微細なニュアンスをわきまえない人、という意味で、この場合は、どこの出身者であるかはあまり関係ない。
中央で生まれ育った人にも田舎者はいるし、地方で生まれ育った人にも田舎者はいる。
おそらく、京・大阪や、江戸〜東京は、人々がかたまって暮らして、しかもまわりとは制度のうえでも、意識のうえでもいささか隔離されていたから、それぞれ、独特の流儀や不文律、物の感じ方が育ったのだと思う。
地方出身者は、すぐにはその流儀や不文律、物の感じ方を理解できないから(特にラジオ、テレビが普及する前はそうだったろう)、そこから「田舎者」を蔑んで使う用法ができてきたのだと思う。
わたしは富山県の出身で、大学のときから東京近辺で暮らすようになった。
以前は「田舎者」という言葉を聞くと嫌な気がしたものだが、最近はそうでもなくなった。
もはや人生の半分以上を東京近辺で送っているせいかもしれないが(もっとも、東京の人間という意識はない)、それより、上の2つの意味、使い方の違いがわかってきたからのように思う。
先のドラマの、「田舎者の誰それ」を「地方出身者の誰それ」と言い換える野暮は、「田舎者」の2つの意味をごっちゃにしてしまっているのだろう。
ここで、「いかにも田舎者のやりそうなことである」などと書いて文章を締めるのが、まあ、よくある手口なのだが、それもヤボチンスキーなので、よしておく。
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「今日の嘘八百」
嘘六百九十五 太平洋戦争末期の日本は、「民族自決主義」の「自決」を勘違いして捉えていた。