昨日も書いた、漫画家、滝田ゆうの描く美人に再登場いただく。
この顔立ちが滝田ゆうの漫画世界では美人だ。わたしも美人と了解して、漫画を読む。
考えてみると、不思議なことである。
こんなに目と目が離れていて、口なんぞ顎にひっついているのに、なぜ美人というふうに感じるのか。
現実世界の美人の基準と共通するのは、細面(ほそおもて)で目が切れ長、睫毛が長いことくらいではないか。
しかし、美人なのである。色っぽいのである。
滝田美人がどういう流れから生まれた美人なのかもわからない。
現実世界の美人から来たようには見えないし、浮世絵の美人ともだいぶ違う。
美人と思えるからには、何か原型となった美人像がありそうだが、思いつかない。
今のところ、わたしには、滝田世界の中で確立された美人としか、言いようがないのだ。
滝田美人もそうだし、巨大な目のアニメ美人もそうだが、ばっちりできあがった表現世界には、現実世界とはまた別の、独自の美人像があるのかもしれない。
もしそうだとすると、浮世絵の美人も、あれは浮世絵ならではの美人だった可能性はある。
つまり、江戸時代の現実の美人とはかけ離れていた、と、まあ、今となっては確かめようがないが、そんなことも考えられそうだ。
話がどんどん桂馬飛びしてきた。
圧倒的知識の不足と、脳味噌の性能の不足により、どうも話をまとめられそうにもない。
ぐだぐだとわけのわからない文章をここまで読んできたアナタ。
徒労、ということを、身をもって感じたのではないでしょうか。
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
「今日の嘘八百」
嘘百八十六 ウシだっていいじゃないか にんげんだもの