駄洒落は、作るのは簡単だが、笑わせるのは難しい。
そもそも、「駄」の字がついた時点で、すでに馬鹿にされている。
最も簡単で、最も難しい笑いのテクニックだと思う。
駄洒落を好むオジサンは多い。逆に、オバサンには駄洒落を好む人があまりいなくて、この差はちょっと不思議だ。
若年層にも駄洒落を好むやつがいるが、まあ、どの世代にも、何パーセントかはどうにもならない連中がいるものだ。捨て置くしかない。
オジサンはなぜ駄洒落を好むのか? いくつか仮説を考えてみたい。
仮説1:オジサンはまわりを和ませたいと考えている。
オジサンにやや好意的な仮説である。
オジサンの年齢ともなれば、職場や町内などで、ある程度の位置にある場合が多い。
これは必ずしも、部長、課長、次長、商店会副会長といった役職のことを言っているわけではない。
難しい言葉でいえば、共同体の中で期待される役割、といったような話である。
例えば、「まあ、まあ、みなさん、落ち着いて、落ち着いて」というセリフを、若造が言うと蹴られるが、オジサンが言うとしっくりくる。
全体をまとめる、とまでは行かないまでも、あまりギスギスした状態にならないようにする役割が、オジサンくらいの年代には期待される。
ギスギスしない状態、和んだ状態にするには、潤滑油が必要だ、それには笑いがいい、というわけで、オジサンはしごく簡単に作れる駄洒落に走る、というのがこの仮説である。
ただ、この仮説は、駄洒落を聞かされた若い世代がしばしばストレスを覚える、イラついてしまう、という点が弱い。
率直に言って、駄洒落でまわりが和むケースは少ないのだ。
オジサンがそれに気づいていない可能性はある。あるいは、気づいていても、結果については無頓着なのかもしれない。
もしそうだとしたらなら、オジサンは極めて無責任であり、極端に言えば、不誠実ですらある。
仮説2:オジサンはパッキンがゆるみつつある。
年をとってくれば、あちこちのパッキンがゆるんでくるのは、周知の事実である。水道だって、長年使っていれば、ポタポタ水が垂れるようになる。
卑近な例で恐縮だが、わたしも最近、時折――いや、その手の話はやめておこう。
この仮説は、脳と口の間にあるパッキンがゆるんでくる、というものである。
若い頃は、たとえ駄洒落を思いついても、自制心とか、効果に対する予測とか、恥の念というものがあり、口には出さない。
ところが、オジサンになると、パッキンがゆるんでいる。自制心だのなんだのがあっても、ゆるんだパッキンからつい駄洒落が漏れてしまうのだ。
この仮説は、結構、いい線をついているのではないか。
ただし、同様にパッキンがゆるんでいるオバサンがあまり駄洒落を言わないことを、うまく説明できない。
また、駄洒落を口にした瞬間、しばしばオジサンがうれしそうだったり、得意気ですらあることを、どう考えたらいいのだろうか。パッキンのゆるみだけでは説明できないだろう。
長くなりました。ちょっと一休み。