駄洒落考・続き

仮説3:オジサンは子供に帰る過程にある。



 オジサンと並んで駄洒落を好むのが、男の子だ。


「洒落をおっしゃれ」程度でゲタゲタ笑えるのだから、思えば幸せな時代である。
 シモの話との合わせ技で、「チッコいチンチンからオチッコ」などとやらかしたら、おそらく、収拾がつかないくらいの大騒ぎとなるだろう。


 よく、老人は子供に帰る、という。
 もしそうならば、オジサンというのはプレ老人期だから、子供に帰る途中だ、という見方もできるだろう。


 きれいに言えば、少年の心を取り戻す過程にあるわけだが、その過程で、最初に取り戻すのが駄洒落好きの心だとしたら、何とも、人間とは哀しい存在である。
 お釈迦様は、人間の苦を「生・老・病・死」の四つに分け、そのうちの「老」のひとつとして、「捨隷流解」(サンスクリット語で「サレルカーイ」)という苦しみを挙げている。嘘である。


 一見、もっともらしい仮説に思えるが、ジイサンに、オジサンほどは駄洒落好きがいない(ジジイギャグ、というのはあまり聞かない)、という点が弱みだ。


 まあ、ジイサンは、駄洒落に目覚めた子供より、さらにさかのぼってしまった、と考えられないこともないが。



仮説4:オジサンは頭の中の回路が最短でつながる。



 ちょっと説明のいる仮説だろう。


 人間の脳神経細胞ニューロン)は他の脳神経細胞と結びついている。結びつく部分をシナプスと呼び、多数のシナプスが存在することによって、複雑な脳神経回路が形成されている。


 シナプス(神経と神経の結びつき)は新たにできあがることもあれば、なくなることもある。


 一般に、人間は、青年→中年→老年と年をとるにつれ、シナプスが減少し、また脳神経細胞自体も減っていく。
 ――と書くと、何だかだんだん頭が悪くなっていくみたいだが、必ずしもそうではない。


 使われないシナプスはなくなり、よく使われるシナプスだけが残っていく。いわば、回路の整理が行われるわけだ。


 考えようによっては、オジサンは、頭の中に、効率のよい回路を持っているともいえる。


 そして、この効率のよい回路の中で概念と概念が結びついたとき――駄洒落が生まれるのだ。


 というのが、この仮説。
 何しろ、回路が簡単だから、結びつくのも早い。だから、駄洒落もやたらと生まれる。


 ゲーム脳とやらの研究も結構だが、脳科学言語学・人間行動学・経営学的には、むしろ、オジサンの駄洒落脳の研究をこそ進めるべきではないか。


 駄洒落を思いつく、というのは、頭の閃き以外の何物でもない。


 アルキメデスが風呂に入るとき、風呂からあふれ出るお湯を見てアルキメデスの原理が閃き、「ユーレカ!(そうか、わかったぞ!)」と叫んだ、という話は有名だ。


 駄洒落が閃いた瞬間のオジサンも、頭の中の回路がつながり、「ユーレカ!」となっているのだ。
 駄洒落を言うオジサンがうれしそうだったり、得意気だったりする理由も、この仮説なら説明できる。何しろ、「ユーレカ!(そうか、わかったぞ!)」なのだ。うれしくないわけがない。


 ちなみに、アルキメデスは「ユーレカ!」と叫んだ後、あまりのうれしさに風呂から飛び出し、全裸で街を走り回ったそうだ。
 史上最も有名で偉大なストリーキングである。ギリシア語では、ストリーキングのことを「アルキメデシステ」(ラテン文字表記すると、“Archimedesisthe”)と言うのだそうだ。嘘だそうだ。


 ただし、普通のオジサンは駄洒落が閃いても、決して全裸でそこらへんを走り回ってはいけない。二重の意味で迷惑である。


 この仮説は面白い。しかし、オバサン、ジイサン、バアサンに比べて、なぜオジサンが突出して駄洒落を好むか、ということをうまく説明できない。
 長々書いてきたのに、何だか、残念である。読んできた皆さんも、残念だろう。




 以上、なぜオジサンが駄洒落を好むかについて、いくつか仮説を考えてみた。どれも、多少の説得力はありながらも、欠点がある。


 困ったことに、今、文章を締めるオチを思いつかない。
 駄洒落で落とすことはしたくない。それは、わたしの信条であり、矜持であり、人間として譲れない一線である。


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「今日の嘘八百」


嘘百七十三 メソポタミアで発見された人類最古の文字資料には「シュメールに住めーる」という駄洒落が書いてあるそうだ。