今頃、いきなり言い出すのも何だが、彫刻家になればよかった、と思うのである。
いや、もちろん、才能とか技術のことは置いておくよ。
わたしはものを立体的に捉える、ということがとても苦手で、例えば、三面図から立体を想像することができない。
ノミを持てば、3分以内に自分の手を彫刻してしまうだろう。
粘土をいじれば、地球には重力がある、ということを思い知らされるに違いない。
幼稚園のときだったか、わたしがつくった怪獣が、ウルトラマンもいないのに、ゆっくりとうなだれ、やがてへたりこんだのを覚えている。
「いかんともしがたい」という感覚を、人生で最初に覚えた瞬間だった。
だから、以下の話は、あくまでそうした問題が解決したうえで(ということは、世界平和が実現したうえで、というくらい、非現実的なことなのだが)、やってみたいことだ。
まず、これは以前にも書いたことがあるが、「考えた人」という彫像を作りたい。
ロダンに、「考える人」という有名な作品がある。
「考えた人」は「考える人」とまったく同じでよい。ただ、口元をかすかに、ニヤリ、と歪ませたい。
名作になる、あるいは少なくとも受ける予感はする。
「考える人」については、他にも「籠城」とか、「しぶり腹」というタイトルをつける手も考えている。しかし、これは彫刻家の仕事ではない。
昨日書いた、「右往・左往」という作品も作ってみたいと考えている。
寺の山門によくある、一対の金剛力士像(阿形、吽形)のように、右に向かって走る人を「右往像」、左に向かって走る人を「左往像」とするのだ。
両方ともサラリーマンの格好で慌てたふうに駆けさせ、「右往像」は小脇に抱えた大量の書類から何枚かの紙がハラハラと落ち、「左往像」は携帯電話に向かって何か叫んでいる、なんていうのもいい。
会社や役所の入り口の両側に、一対の「右往像・左往像」を置くと「洒落のわかる企業(役所)」と評価されると思うのだが。
ただし、防衛庁だけは不安を招くのでやめておいたほうがいいと思う。
もうひとつは、高村光雲のかの名作「老猿」をモチーフにした作品だ。
わたしのやりたいことは簡単だ。この老猿の左手を挙げさせたい。
タイトルは「気さくな老猿」である。
ああ、彫刻家は楽しそうだ。
しかし、こうやって書き飛ばし、後は読む人の想像力のほうでテキトーにやっちくれい、と放り出せるので、物書きも、簡単・便利ではある。