できちゃった婚

できちゃった婚」という言い方が、どういうわけか、嫌いだ。
 子どもができたから結婚する、ということが嫌いなわけではない。言い方が嫌いなのだ。


 内省してみるに(おまえはもっと他のことを内省すべきだ、という声もあるだろうけど)、その「嫌い」のあり方は、「ホリエモン」という言い方のイヤさに似ているようだ。
 たぶん、安くて浅い言葉なのに、それを面白がるセンス、あるいは少なくとも平気でいられるセンスがイヤなのだと思う。


 なーにが、「ちゃった」だ。かわいぶりやがって。
 わざと軽く言ってみせてゴマカしてしまおう、というセコい魂胆がミエミエだ。


 できちゃった婚は、他にもつまらない冗談がぶら下がるところが、さらに始末に負えない。


 結婚式で司会者が「実は新婦のお腹には、すでにふたりの愛の結晶が」というところくらいまでは、まだ構わない。
 列席者の、内心、ちょっと困りながらの拍手も、まあ、いいだろう。


 しかし、その後で、「えー、順番はちょっと逆になりましたけれども」とか、「どうやら、今日という日が来るのを待ちきれなかったようで」とか、「どのみち、結果的には同じことですから」とか、「計算外の事態により」などという、浅い冗談の続くところが、凄くイヤだ。


 そうして、ウェディングケーキへの入刀になると、「では、三人による初めての共同作業を」とか、「では、新郎・新婦による二度目の共同作業を」などという言葉が出てくる。


 ウェディングケーキに司会者の頭を叩きつけてやろうか、と思う。


 司会者の安い冗談を笑う列席者も、イヤさに輪をかける。つまらないなら、笑うな。シーンとなって、司会者をまごつかせろ。
 逆に、そんな程度で面白いのなら、ゼツボー的だ。一生、笑点を見て、笑っていなさい。


 あの手のイヤさは何かに似ているな、と、しばらく考えていたら、出てきた。歌謡ショーのベタベタなコントと、それを笑う観客だ。