恋、エイジング

 今日の話は前にも書いた気がするのだが、わたしの記憶はすでに霧の彼方。ダブっていたら、ご勘弁いただきたい。


 年をとった人に対する、「いつまでも恋していたい」とか、「恋することで自分を変えよう」という類の言い草があって、ハテどうなのか、と思う。


 法律方面には、「貞操義務」なるオソロシイ概念があるんだそうで、これを守るには、夫なり、妻なりに恋せねばならぬ、あるいは他人に恋しても、それはプラトニックでなければならぬ、とそういうことになるようだ(関係ないが、今日の「プラトニック」の使われ方を知ったら、プラトンもビックリだろう)。


 しかしですね、わたしには推量しかできぬのだが、連れ添うて三十年、横で屁をたれている夫やせんべいをガジガジ囓っている妻に、恋なんぞできるものだろうか。いや、できたら素敵なこと、そのまま行ってください、だが。


 一方で、気持ちだけの恋、といっても、これがなかなか難しい。嫉妬の炎というのは、惚れているからばかりでなく、自尊心の故もあるから、気持ちだけといっても、バレたらなかなか許してもらえるものではない。


 それに、老いらくの恋というのは、言葉だけなら美しいかもしらんが、現実に目の当たりにすると、まわりは結構、困った心持ちになるのではないか、と思う。


「いつまでも恋していたい」とか、「恋することで自分を変えよう」という類の言い草は、結局のところ、浮き立った心のスキを突いて、商品を売り込んでしまおうとする魂胆のように思えてならない。渡辺センセーあたりは、だいぶ儲かるそうである。



恋、か……。


 そもそも、恋というのは「する」ものではなく、「してしまう」ものではないか、という疑問が昔からあるのだが――。


 引きずり下ろしついでに書くが、「アンチエイジング」という言葉もどうなのか、と思う。


 昔から言う「若作り」のことなのだが、エイジングした方に失礼ではないか、と思う。



どうせ私は……。


 別に若作りせずとも、好感の持てるお年寄りというのはいる。
アンチエイジング」は「年を重ねる」とともに、わたしが政権を握ったときの言葉狩りリストに入っている。


 まあ、こうやって何かを否定してがなり立てるというのは、否定することによって己を確立したいという、反抗期のガキと同じ性根なんですがね。

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「今日の嘘八百」


嘘七百八十五 わたしにとって、恋とは「する」ものではなく、「される」ものである。