杉野兵曹長の銅像

 おれは古い落語の録音をよく聞く。戦後の志ん生文楽あたりからで、幸い戦後は落語がラジオの重要なプログラムだったから録音がいろいろと残っており、CDがたくさん出ている。
 戦後しばらくの落語で、女が横倒れにくずおれる姿を、まれに「杉野兵曹長銅像みてェな格好で」と表現して笑いを取ることがある。ただ、このたとえは当時でもわかりにくかったのか、「杉野兵曹長銅像みてェな格好で・・・若い方にはおわかりにならないかもしれませんが」などと言い訳したりもする。
 この「杉野兵曹長銅像」というのが今日の話である。古い落語を聴いて検索した方の便利のために書く。
 まず、「女が横倒れにくずおれる姿」だが、人によってはそもそもこれがわかりにくいかもしれない。早い話が、金色夜叉で貫一に蹴飛ばされたお宮の格好である。全然早い話じゃないか。歌舞伎や時代劇などで、女性が無体にされて「あ〜れェ〜」と倒れる、あの格好だ。
 次に、「杉野兵曹長」。これはちょっと長くなる。杉野兵曹長は、戦前に「軍神」とされた広瀬中佐の部下。二人は日露戦争の旅順港閉塞作戦に参加した。旅順港の湾口に船を沈めて、ロシア海軍を港内に封鎖しようとした作戦だ。広瀬中佐と杉野兵曹(当時)の乗る船は湾口まで近づいたところで敵の魚雷を受け、指揮官の広瀬はそのまま船を自爆して沈めることにした。杉野が爆薬に点火しに船底へ下りたが戻ってこず、先に脱出艇に乗った広瀬が自ら探しに行った。しかし、杉野は見つからず、広瀬は、脱出艇に再び乗り込もうとした瞬間、砲弾を食らい、戦死した。かくして広瀬中佐は「軍神」とされ、杉野兵曹は兵曹長に特進した。
 前段が長くなったが、これが「杉野兵曹長銅像」である。

 上に立っているのが広瀬中佐、基台の上で手をついているのが「杉野兵曹長銅像みてェな格好」をしている杉野兵曹長である。場所は東京の万世橋駅(今はもうない)前で、神田と秋葉原を結ぶ万世橋の神田側にあった。下に立つ人の背の高さと比べると、かなり巨大なものだったことがわかる。
 このリッパな銅像を女のくずおれる姿にたとえたのが当時の落語家のお手柄で、リッパなものを茶化してみたい心根があったのだろう。そして、当時の落語の観客もその心根が理解出来るから笑ったわけである。
 なお、この広瀬中佐と杉野兵曹長銅像は昭和二十二年に撤去されたそうだ。GHQが日本の軍国体制を解体していた時期で、GHQが指示したのか、それとも「このご時世にいかがなものか」的な判断が日本政府側にあったのかは知らない。今となってはもったいないことをしたものだ。おかげで、「杉野兵曹長銅像みてェな格好」がどんなものだかわからなくなってしまった。
 万世橋秋葉原の入り口である。もし今も残っていれば、変わり果てた日本の秋葉原を、広瀬中佐と杉野兵曹長銅像はどのような心持ちで眺めるだろうか。