東京遷都

 相変わらずの思いつきを書く。毎度ながら、ここに書き散らしたことに一切責任をとるつもりはない。
 昨日、自転車で皇居のわきを走りながら、「明治維新の際、なぜ都を京から東京へ移したんだろうか?」と考えた。大政奉還の後、京都をそのまま都にする選択肢もあったはずだ。
 丸の内警察署から最高裁判所まで走るうちになんとなく答えが出た。
 東京への遷都はこういう流れだったそうだ。

慶応3年(1867年) 徳川慶喜将軍から明治天皇大政奉還
慶応4年(1868年) 徳川家が駿府に移封される。「江戸」の名称が「東京」に変わる
明治2年(1869年) 東京城江戸城)が皇城とされ、太政官(維新政府)が東京に移る

 逆から考えてみる。当時、京から江戸には徒歩で十日から二週間くらいかかったそうだから、その心理的距離感は現在の日本からニューヨークに行く以上のものがあったはずだ。もし京都にそのまま朝廷が残った場合、朝廷側(維新政府側)からすれば、甚だ不安だったろうと思う。いくら徳川家が駿府静岡市)に移ったと言っても、江戸(東京)にはまだ幕府ゆかりの武士が大勢いたし、旧幕軍が参集して決起したら面倒なことになる。おまけに京から江戸に行くより、徳川家のいる駿府から江戸のほうがはるかに近い。
 そういう軍事面もあるけれども、京から東京に首都を移したのには象徴的な意味も大きかったのだろう。「ショーチョーテキ」と書くと何やらわかりにくくなるが、こういうことだ。その頃のたいていの人にとって「お上」と言えば幕府と将軍であり、御公儀と言えば幕府のことだった。日本の中心は江戸だった。そこで旧幕府をただの「徳川家」という扱いに(戻)して、その元々のでっかい居城、当時の多くの人が日本のど真ん中と思っていた場所に天皇が鎮座ましました。「あー、これからは天子様がお上であるぞよ」と国内に大声で宣言するには江戸に天皇が移るのが手っ取り早かった、とまあ、そんなところだったのではないか。
 当たり前だけれども、首都をどこに置くのか、というのはとても重大で、機能の話だけでは済まない。アメリカの首都がワシントンD.C.に置かれたのは、北部と南部のちょうど中間地点だったから、という話を聞いたことがある(ワシントンD.C.は冬は寒く、夏は蒸し暑く、あまり過ごしやすい場所ではないそうだ)。あるいは、想像だけれども、EUの本部をブリュッセルに置いたのは、フランスやドイツのような大国に置くと他国が疑心暗鬼になって剣吞だから、という理由もあったんだろうと思う(ブリュッセルのあるベルギーはその点、ある種の安心感があるのか)。
 どうも今日は話題がのっけから唐突なうえに、飛びまくった。飛びまくりついでに言うと、今となったら、天皇家はうるさい東京から京都にお戻りあそばはったらどうや、とこない思いますんやが、どうや。