剥製

 以前にも書いたことがあるが、上野の東京科学博物館には南極探検隊の樺太犬タロと忠犬ハチ公の剥製がある。今はどういうふうに展示しているのか知らないが、何年か前に行ったときは二頭並べて置いてあった。
 タロとハチ公は互いに特に関係ない。共通項を探せば、どちらも「有名になった犬」というだけである。無名の犬ではなく、有名な犬を展示しているのは、まあ、オッ、と客の気をひきつけるからなんだろう。
 犬の剥製は人前に展示されるのだが、人間の剥製が制作されたり展示されたりしないのはなぜだろう。いやまあ、世の中にはいろんな趣味趣向の人たちがいることだから、どこかでこっそりとは制作されているのかもしれないが、公に展示しているという話を聞いたことがない(そういえば、江戸川乱歩の小説にそういうものがあったな)。
 たとえば、東京科学博物館に坂田利夫の剥製を「20世紀から21世紀初めに生存したアホの剥製」として展示したら相当インパクトあると思うのだが。あるいは、ファンの人に怒られそうだが、マイケル・ジャクソンの剥製が「20世紀の整形技術の見本」として隣にあって、さらにその隣に利根川博士あたりの剥製があったら、相当面白いだろう。
 とはいえ、おれも人間の剥製は気持ち悪いし、倫理上、問題があるように感じる。死んでからつくるんだから別に問題なさそうなものだが、やはりそういうことはせんほうがいい、と思う。さらに言えば、タロとハチ公の剥製にも違和感をおぼえる。無名な犬の剥製もちょっとひっかかるが、タロとハチ公の剥製ほどの違和感ではない。羊やライオンや狼の剥製は全然違和感がない。どうもこうした違和感は、我々の頭の中にある「生き物の区分け」みたいなことに関係していそうだ。
 あと、やっちゃいけないのは剥製の制作工程を想像することだ。オエエエ。