頭、胸、腹で考える

 引用した元の文章を読むと、知識をひけらかそうというふうには感じなかった。おそらく、上記の文を書かれた方は真摯に書かれたのだろう。では、なぜにイヤミ風に見えるかというと、言葉の出どころによるんじゃないかと思う。

 最近、物の捉え方には、頭、胸、腹のどこに来るかという違いがある気がしている。つまり、頭(理屈)、胸(気持ち)、腹(腑)のどこに作用するかであって、まあ、昔ながらの「腹を割って話す」とか、「胸がいっぱい」とか、「頭ではわかってるんだが」とか、そういう捉え方の違いである。

 でもって、どんどん乱暴な話になって恐縮だが、日本語の(西洋系)外来語、漢語、和語はある程度、頭、胸、腹に対応するように思う。外来語で語れること、あるいは語られることというのは多くが頭、つまり理屈に関する話だ。漢語、特に明治維新以後に使われるようになったものは頭か胸くらいまで。腹に応える話は和語だと語りやすい。例えば、「ラブ」と「愛する」と「愛しい」の違いを比べてみていただきたい。外来語を多用して腹に応える話を書ける人がいたら、おれはシャッポをぬぐよ(シャッポも外来語だな)。

 マーケティング系の文章や、広告代理店の企画書、近頃ではソーシャルメディアや情報機器関連の文章を読むと、どこか信用できない感じを受ける。書いた方はおそらく真面目に誠実に書いていらっしゃるのだとは思う。言い換えのきかない言葉があるのもわかる。しかし、(少なくともおれには)ぬぐえない不信感。外来語≒頭のあたりでやっていることというのは、ちょっと情勢や流行が変われば、すぐに手のひらを返すんだろうと思えるからかもしれない。どうも浮薄な感じがする。

 まあ、言葉に対する態度というのは人それぞれだからあまりああしろこうしろと言えないのだが、外来語を多用する人は、世の中にはイヤミの顔を思い浮かべる聞き手/読者もいるということを知っておいてもいいんではないか。そのあたり、無頓着に過ぎるかな、と思うことがある。