くろ谷の会津藩士

 家から南へ7、8分のところに金戒光明寺という浄土宗の大寺がある。地元ではもっぱら「くろ谷さん」という名で呼ばれているようだ。大寺ではあるけれども、それほど観光地化しておらず、普段は参拝客はまばらである。境内を歩くと、山門や建物、石畳など、剛直な印象がある。

 幕末の頃、ここは会津藩の屯営で、千人からの会津藩士が京の治安維持のために宿営していたそうだ。寺の北側には30m角ほどの敷地が区切られ、会津藩士の墓地となっている。幕末のわずか5年間で237名、くわえて鳥羽伏見の戦いで115名が亡くなったという。京都宿営中、会津藩士は同僚が亡くなると、ここに葬ったのだろうか。ならば、屯営のすぐそばがついこの間まで生きていた同僚達の墓ということになる。現在の墓地は明るくも暗くもなく、ただ静かな感じがする。

 勝者の系譜につながる薩長土の士や、事件が多くて派手な新撰組(陰惨でわたしはあまり好きではない)はよく取り上げられる。しかし、京の会津藩士が取り上げられることはあまりないように思う。300名以上が亡くなっているのだが。

 くろ谷にいた会津藩士の多くは、郷里やあるいは江戸から藩主に従って来たのだろう。現在の福島や東京から京都に来る感覚とは随分異なったにちがいない。遥けく京まで来て屯営する彼らはどういう感覚でいたのだろう。忠義だったのか、務めという感覚だったのか、単に「そういうものである」というふうだったのか、あるいは「仕方がない」だったのか。

 墓地を歩き、明治四十年に建立されたという碑を眺めるうちに、何とはなしに物悲しい気持ちになった。なぜだか涙が出そうになった。想像過多なのかもしれない。