英語の訓読

 相変わらず漠然とした知識に基づいて書くのでご勘弁いただきたいのだが、日本語が漢字を取り入れるにあたっては、2つの契機があったらしい。


 1つは万葉仮名で、日本語(漢字輸入以前に形成されたやまと言葉)の音に漢字を当てはめるというものだ。「いろは」なら、


以呂波


 と表記したわけである。


 そこから、「ああん、もう、漢字は画数が多くて、書くのが面倒でおじゃる!」と、漢字をくずして書くなかからひらがなが生まれ、漢字の一部を取り出して書くことからカタカナが生まれた、ということのようだ。


 もう1つの契機は漢文の訓読で、こっちは万葉仮名とは反対に、漢字に、同じ意味を持つ日本語の音を当てた。


 例えば、「国破山河在」なら、「コクハサンガザイ」か何か、それに近い中国語音で読むべきところを、「『国』の字は、くにのことなんだから『くに』と読んだっていいではないか。『破』は『やぶれて』で意味が通じるではないか」と、乱暴だが革命的な発想をした人がいて、「くにやぶれてさんがあり」と読むことにした(らしい)。


 もっとも、「山河」は「やまかわ」ではなく、「サンガ」と中国語音に近い音を残したのだから、チャンポンではある。


 万葉仮名なければ、ひらがな、カタカナはなく、漢文の訓読なければ、現在、我々が使っている漢字仮名交じり文はありえなかった、と、そういうことのようだ。


 さて、ここからが本題なのだが、明治初めかあるいはもう少しさかのぼるのかもしれないが、英語やオランダ語の教育は漢文のように訓読でやるベシ、という意見があり、なかなかの勢力を持っていたらしい。


 例えば、“This is a pen.”なら、


This(是) is(ナリ) a(一ツ) pen(ペン).


是ハ一ツノペンナリ。


 と読む。
 実際、明治時代の英語の教科書は、しばしばこの方式で説明していたという。


 訓読方式を採用すると、“This”を見て、「ディス」(ちゃんと舌噛んでね)とは読まず、いきなり「これ」と読んでしまうことになる。


 乱暴だ、と思うかもしれないが、実際、あおによし奈良の都や平安京の人々は、そうやって中国語の文章を日本語化していたのである。


 幸か不幸か、明治も進むと、この訓読方式は流行らなくなってしまった。国際的な交渉ごとが増え、輸入した文章をのんきに読んでだけいればよい、という時代ではなくなったからかもしれない。


 ここから先はファンタジーの世界だが、もし英語の訓読方式を全面的に採用していたなら、我々は今、どんな言語世界で遊ぶことになっていただろうか。


 例えば、“It's no use crying over spilt milk.”(覆水盆に返らず)なら、こうなるのかもしれない。


It(ソ) 's(ナリ) no(無) use(益) crying(嘆)クコトニレ over(ヲ) spilt(零)レタル milk(乳汁).


ソハ益無キナリ、零レタル乳汁ヲ嘆クコト。


 ビートルズの“Can't buy me love”は、


Can't(得)ニレbuy(買)ウヲ me(我) love(愛)


我ニ愛ヲ買ウヲ得ズ


“All you need is love”なら、


All(全)テハ you(君) need(要)スル is(ナリ) love(愛)


君ノ要スル全テハ愛ナリ


「山河」で「サンガ」と中国音を残したように、“you”を「ユー」、“love”を「ラブ」と残すと、「ユーノ要スル全テハラブナリ」と、ルー大柴を漢文化したようなわけのわからない文章を、我々は今、書いていたかもしれない。


 昨日飲んだビールの缶には飾りとして(!)こう書いてあった。


Brewing from the first wort gives this quality draft beer and impeccable, full-bodied flavor. Kirin's Original Brew ― distinctively smooth, refreshing and satisfying.


 読み下すのも大変だが、やってみる(ここまで書くのに、もう2時間半もかかっている)。


Brewing(醸造二レ from(カラ) the first(最初) wort(麦汁) gives(与) this(此) quality(高質)ナル draft(樽) beer(ビール) and(オヨビ) impeccable(無欠)ニシテ, full-bodied(酷深) flavor(風味). Kirin's(キリン) Original(独自)タル Brew醸造物) ― distinctively(際立) smooth(円滑), refreshing(爽快) and(オヨビ) satisfying(満足).


最初ノ麦汁カラノ醸造、此ノ高質ナル樽ビールオヨビ無欠ニシテ酷深キ風味ヲ与ウ。キリンノ独自タル醸造物――際立ツ円滑、爽快オヨビ満足。


 そうして我々は、英語の発音を解さずにアメリカ人やイギリス人と筆談を交わすという、凄いんだか凄くないんだかよくわからない道を歩んでいたかもしれないのである。