日本詩歌の伝統〜俳句の詩学〈3〉

日本詩歌の伝統―七と五の詩学

日本詩歌の伝統―七と五の詩学


 川本皓嗣著「日本詩歌の伝統」より、「俳句の詩学」の話の続き。


 川本先生のそもそもの問題提示に戻ると、俳句は十七文字(十七音節)という短さにも関わらず、どうして豊かなイメージなり感興なりを伝えることができるのか、ということであった。


 でもって、松尾芭蕉の確立した俳句のスタイルは、俗語や当時の会話の言葉を使って言葉遣いの面白みを味わわせる基底部と、句の意義を決める干渉部に分かれる。


 例えば、


〈五月雨をあつめて早し〉最上川


 なら、〈五月雨をあつめて早し〉が基底部。最上川が干渉部である。


 と、ここまでが昨日の話。


 では、たった十七文字しかないなかで、どうすると、より豊かなイメージや感興を伝えられるか。


 それには、なるべくさまざまな連想が湧く言葉、例えば、有名な歌を思い出させるとか、有名なエピソードを思い出させるとか、長い間、取り沙汰されてきて強い印象があるとか、そういう言葉を使うとよい。


 そういう言葉が日本の詩歌にはありましたね。そう、歌語でありんす。別に花魁になることはないが。
 ここで話は、月曜に紹介した和歌の歌題の話「秋の夕暮」につながるわけであります(id:yinamoto:20080128)。


 ちょっと引用が長くなるが、川本先生によると、


(稲本註:近世において)もはや時代の感性を反映しなくなった、古い歌語のたぐいはもう用済みになったのかといえば、事実はむしろその逆である。そして芭蕉の大きな功績のひとつは、俳諧の表現と意義の両面で、歌語が果たすことのできる重い役割を、隅々まで見通した点にある。一句のなかで、雅語と俗語が隣り合って「思いがけない」ひびきを発すること、そこにこそ俳諧の生命がある。まず表現面でいえば、ごく手短かに切り詰めた表現で、何か面白いイメージの組み合せを提示しようという時に、豊富な連想の器ともいうべき歌語にその一端をになわせることは、字句の経済性の点でも、また「構成」の衝撃効果という点でも、きわめて有効な手といえるだろう。イメージに実感を与えるための「耳慣れない」表現の工夫についても、むろん同様である。


 一語でさまざまな連想を呼び出す歌語は、どちらかというと、言葉の組み合わせの妙をフレーズで味わわせる基底部より、短くて句全体の意義を決定づける干渉部に使うと、効果的なようだ。


 以下は、川本先生の挙げている事例ではなく、わたしの勝手な解釈だが(自分でやってみないとつまんないのよね)、先の「五月雨をあつめて早し最上川」の場合、「最上川」が歌枕、つまり、和歌でよく詠まれる名所=歌語だ。


 最上川日本三大急流のひとつであり、現地に行ったことのない人にも「大河なんだろうなあ、流れが早いんだろうなあ、轟々と音が凄いんだろうなあ」と連想させる。あるいは、「東北だから、鄙びて、風景に荒々しさがあるんだろうなあ」とも思わせるかもしれない。


 そうして、そんな「最上川」が〈五月雨をあつめて早し〉と合体することによって、ぽつぽつと静かに降る五月雨が野で山で少しずつ集まり、細流が二本、三本、四本と合していき、ついには轟々と眼前を流れ下るに至るダイナミックなイメージが立ち現れてくる。


 もちろん、干渉部には必ず歌語を使わなければならない、という決まりはない。


 例えば、現代なら、


〈五月雨をあつめて早し〉ベン・ジョンソン


 でも、別のイメージを抱かせることができるだろう。


 読む人は、ソウル・オリンピックの際の異常に盛り上がった上半身の筋肉や、金メダルを獲った後に発覚した不名誉なドーピングや、同じくドーピングにひっかかったことのあるマラドーナの専属コーチに採用されたことや(おいおい、と世界中がツッコんだものである)、ローマで財布を盗んだ少女を追っかけて逃げられてしまったことや、なぜか「トリビアの泉」の実験のために何度も来日していること等々、言葉(ここでは人名)に付着するさまざまな記憶が脳裏に呼び出されるわけである。


 俳句は非常に短い。だから、さまざまな連想の働く言葉を取り込むとよい、というのがひとつの手であるようだ。
 そうして、日本には(現代ではいささか通用しにくくなっているけれども)古来、歌語という手垢のつきまくった、連想の働きまくる言葉のグループがあった。


俳句は「黙契の部分を博く深く蔵して」おり、日本語という「閉ざされた文化空間――ちょっと目くばせすれたちまち以心伝心でぴんとくるような間柄」のなかではじめて成立するものだとすれば、そうした目くばせの対象こそ、夕暮といえば悲しみと応じ、花といえばまず散らせたくないと考える、自動的な連想の働きではないだろうか。


(「秋の夕暮」より)


「俳句の詩学」は、


現実に俳句で味わうことのできる表現の新鮮さと多彩さ、感覚や感情のニュアンスのこまやかさ、そして意義の深さや面白さは、文字どおり驚異的といってよい。極端に切り詰めた表現がそれほど豊かな意味をはらみ得たのは、その背後にある長い詩的伝統のおかげである。というよりもまず第一に、個々の詩語に生きるそうした伝統の力を改めて問い直し、俗語との絶妙な組み合せによってその失われた生気をよみがえらせて、時代の感性にふさわしい自由闊達な詩的イディオムをつくり上げた、芭蕉の努力の賜物である。


 と、芭蕉への絶賛で終わっている。
 だから、芭蕉以後の俳句の展開は、わたしにはわからない。


* * *


 とまあ、ここまでが「俳句の詩学」の紹介。


 ここから後は、蛇足なのだが、というか、このブログ、全編蛇足のようなものなのだが、自動的な連想の働きを利用する手口は、自由律俳句にも見られるように思う。


すばらしい乳房だ蚊がいる


 という尾崎放哉のすばらしい句(かギャグ)は、やはり、オッパイという、人間が避けては通れぬ問題に正面から踏み込んだところに、成功の秘密があるのだろう。


 種田山頭火の、


音はしぐれか


 という句は、人々の頭の中にある、芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の記憶を利用していると思う。
「声」と「音」は近く、「蝉しぐれ」という言葉もある。どこまで計算したのかはわからないけれど。

                  • -


「今日の嘘八百」


嘘六百四十九 今度は散布した農薬に餃子が混じっていたそうである。