時間感覚

 駅のホームへの階段で、電車が止まっているのに気づき、わっと駆け下りて目の前でドアが閉まると、たいそう無念な思いをする。遺憾の意を表明したくなる。それほどではないか。


 でもって、次の電車の時間を見ると、特急か何かが通過する関係で10分も待つ。いら立つ。いや、5分、待たされるのだって、いら立つときがある。


 さして急いでいないときだって、そうだ。


 まあ、わたしが気短かなせいもあるのだろうが、わたしばかりではあるまい。
 大都市部の駅のホームに、電車がどのあたりまで来ているかを示す電光掲示板が設置されているのは、それだけいら立つ人が多い証拠だろう。


 昭和30年代頃の、明治生まれの落語家の噺の録音を聞くと、よく、「えー、明治、大正頃の、まだ世の中がのんびりしていた時分には〜」なんていうフレーズが出てくる。
 その頃は、5分、10分間隔なんぞで時間を気にしていなかったのだろう。


 西洋式の時計がなかった頃は、お日様の位置か、寺の鐘くらいでしか、普通の人は時間を知る術がなかったという。
「朝うかがいます」と言えば昼前までに行けばよく、「昼過ぎにうかがいます」と言えば夕方前までに行けばよかったとも聞く。なるほど、もしそうなら随分とのんびりしていたものだ。


 もっとも、座敷に呼んだ芸者は、線香が切れる度に追加料金というシステムになっていたらしいから、そっち方面は、ま、せわしいといえば、せわしい。


 日本でいつ頃から腕時計が普及したのかは知らないが、国産初の腕時計は1913年。大正の初めである。
 一般人が誰でも腕時計をするようになったのは、おそらく、戦後もだいぶ経ってからだと思う(間違っていたら、ごめんなさい)。


 細かく時を刻む時計が普及したから人々が細かく時間を気にするようになったのか、人々が細かく時間を気にするようになったから細かく時を刻む時計が普及したのか。


 ともあれ、機器類というのは、人の心持ちにとって適度な時間の感覚はあまり重視せず(曖昧だから把握しにくいんだろうが)、もっぱら、効率、目先の便利さで進化している。人のほうもそれにつられている。


 メールは電話と違って、相手の時間を邪魔せずに物事を伝えられる、というメリットがあり、その点では時間を気にしなくて済むメディアのはずだったのだが、一方で「メールが来てやしないか」などと心せわしくなる。少なくとも、わたしはそうだ。
 泣きながら仕事をしなければならないとき以外、日曜日はパソコンを立ち上げないことに決めているのだが、実に精神エーセー上、よい。


 携帯電話も、「いつでもどこでも連絡がとれる」という便利さが売り物だったのだけれども、反面、「いつでもどこでも仕事がつきまとう」という煩わしさがついて回る。


 スイッチを切っておくという手もあるのだが、それはそれで、「知らない間に何か連絡が入っているんじゃないか」などと不安になるんだから、救いようがない。


 自転車操業、という言葉が、なぜか思い浮かぶ。

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「今日の嘘八百」


嘘六百三十九 NHKの不祥事が発覚すると、数日後には必ず新聞社の不祥事が発覚する。