本屋に行くと、「品格」をタイトルに使った本が目立つ。売れているか、もしくは本屋の側で売れるかも、と期待しているのだろう。
「品格」という言葉がタイトルに使われる理由は、わたしのスルドくもアテにならない霊感では3つあって、出版社が2匹目、3匹目……n匹目のドジョウを狙う、というのがひとつ(nは正の整数)。まあ、あまり品格ある態度とは言えない。
これは昔からそうで、ベストセラーが出たらとりあえずもじったタイトルを出す、というのは出版業界の一種の伝統であるらしい。
明治末、漱石先生の「吾輩は猫である」が売れた後、「吾輩も猫である」とか、「吾輩ハ鼠デアル」(つまらない)とか、「吾輩もモデルである」(なかなかいい)とか、「漱石の猫は吾輩である」(何だかよくわからない)とか、いろいろパロディ本が出たそうだ。
ここのページにパロディの一覧がある。
鼠、馬、猿、孔子様、フィルム、結核黴菌、居候、豚、輸出貨物、教卓、共同水道、瓦斯、と、実にまあ、いろいろな吾輩がいたようである。森羅万象、これ全て吾輩であるのかもしれない。
2つめに、自分には品格があると思うと、ラクなのだろう。
自分の行動を何かで御している、律していると思い込めば、少なくとも自分では品格がある気になれる。
そうなればこっちのもんで、多少の不都合がふりかかっても、「でも、私には品格がある」で我慢できる。醜いものと一緒にならずとも済む(と、少なくとも自分では思える)。
3つめに、ある言葉が何となく流行する、ということがある。「品格」という言葉は現在、そういう状態なのだろう。
きっかけは、2年ほど前に「国家の品格」が売れたことだろう。
わたしの見るところ、あの本は欧米にヤラレテイル感の裏返しで、喧嘩に負けかかった子どもが「うちはこんな由緒ある家柄なんだぞ。こんなリッパなものだってあるんだぞ。お前らのうちにはないだろ」と言い立てるような、浅い本だが、わたしには品格があるのであまりそういう悪口は言わないようにしている。
でもって、朝青龍がいろいろ話題を振りまき、「横綱の品格」なるものが問われた。「品格」がますます注目を集めることになった。
話はまたも脱線するが、内舘先生は別として、多くの人は、本当に朝青龍に品格なんぞ求めているのだろうか。
単に騒ぎに乗っているか、あるいは悪いやつを作り、尻馬に乗って溜飲を下げたい、ストレスを発散したいだけなのではないかと思う。
朝青龍が品行方正になってご覧よ。大相撲は随分、つまんなくなるヨ。
とまあ、そんなこんなで、何だかよくわかんなくなってしまったが、「品格」は今、流行している言葉なのである。流れで。そのうち、どこかへ行ってしまうだろうが。
そういえば「清貧」は今頃、どのあたりにいるのかしらん、と、わたしは先ほどから考えているのである。
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「今日の嘘八百」
嘘六百三十七 土俵下で静かに待つ白鵬、あれは実は目を開けて寝ているそうである。