まあ、ワールドカップは面白いので、全試合がテレビ中継され、マスメディアがいろいろな形で情報を流してくれるのは結構なことだ。
一方で、同じ一色に染まっているもので、気になる言葉がある。
「格差」という、例のやつだ。
確か、数年前までは、「構造改革」、「構造改革」と騒いでいなかったろうか?
構造改革騒ぎ(祭?)のときは、自由競争派と、既得権益を持つ側が対立したけれども、世論は自由競争派のほうがかなり優勢だったと思う。
自由競争が進めば、経済的格差が広がるのは当然だ。
で、今度は「格差」、「格差」と来た。
「構造改革」と騒いだと思ったら、今度は「格差」。
どっちやねん、と、素早く大阪弁に変わり身して思うのである。
まあ、そんなふうに振り子のように往復して修正しながら、世の中というものは進んでいく(のか、退いていくのか知らんけど)のかもしれない。
が、こう簡単に早変わりして、いっせいに「格差」、「格差」と騒ぎ出すと、ちょっとどうよ、と思うのである。
そりゃあ、経済的格差が広がりすぎると、いろいろ問題が起きるだろう。
また、「格差」というキーワードを用意することで、世の中のありようを、ある形で切ってみせることもできるかもしれない。
しかし、あくまで「ある形で」切ってみせられるだけであって、別の形の切り方だってきっとあるはずなのだ。ただ、その別の形の切り方には、なかなか焦点が当たらない。
どうもこうね、一方から一方へと極端に振れすぎ、という気がするのだ。
人々が踊り出すから政治家やマスメディアが踊り出すのか、政治家やマスメディアが踊り出すから人々が踊り出すのか。
わたしは、腰を振りつつ、どっちやねん、と考えるのである。
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「今日の嘘八百」
嘘百六十七 健全な精神は健全な肉体に宿るということが、サッカー選手を見ているとよくわかる。