消える日本語

 電車の首吊り広告、じゃなかった、中吊り広告で見ただけなのだが、文藝春秋が「消える日本語 言葉とともに失われる日本人の魂」という特集を組んでいる。


文藝春秋12月号


●立身出世(竹内洋)●愛社精神御手洗冨士夫)●おはよう(鈴木健二)●ごちそうさま(陰山英男)●おてんと様(出久根達郎)●義理人情(石井英夫)●ありがとう(ひろさちや)●武士の情け(藤原正彦)●ソコソコ(田辺聖子)●私雨(倉嶋厚)●夜なべ(青木玉)●昵懇(久世光彦)●おほほほほ(佐藤愛子
●粋と野暮(中村勘三郎)●永住町(永六輔)●きまりが悪い(坂崎重盛)●はばかり(嵐山光三郎)●親父(後藤健次)●ひもじい(吉田直哉)●「新解さん」が消した言葉(夏石鈴子)●ほの暗い(樋口裕一)●銀幕(関川夏央)●ねえや(徳岡孝夫)●もしもし(鴨下信一)>●日本の色(平松礼二)●ごめんなさい(内海桂子


 文藝春秋自体は読んでいない。


 多くの寄稿者がいて、スタンスもたぶん、人それぞれだろう。
 しかし、おそらくは、あまり使われなくなってきた言葉を取り上げて、世情や自分より若い世代の感覚を嘆く・クサす・蹴り落とす、という文章が多いんではないか。
 この手の企画は、たいがい、そういうものだ。


 それにしても、「言葉とともに失われる日本人の魂」とは大仰だ。
 日本人の日本人好きにも困ったものである。別に困りゃしないか。


 特集のタイトルは編集者がつけたものであって、寄稿者のあずかり知らぬところかもしれない。
 また、言葉とともに、その言葉を使わせてきた意識のあり方、を俎上にのせているのであろう。


 と、そこらへんの事情はわかっておるのだ、とイヤラしく見せつけておいて、それでも仮に、と考えてみる。


 日本人の魂、「愛社精神」。
 日本人の魂、「夜なべ」。
 日本人の魂、「おほほほほ」。
 日本人の魂、「はばかり」。


 なんだか、ちょっとナニである。愛社精神が日本人の魂と言われてもねえ。


突然小説「おてんと様がはばかりできまりが悪いぜおほほほほ」


 立身出世のために愛社精神に燃える稲本喜之助は、「おはよう」と朝から元気がよい。
 ちゃぶ台で朝食をたいらげて、「ごちそうさま」と手を合わせた。
「やあ、今日もおてんと様がよく出てらあ。母ちゃん、義理人情はやっぱり大事だねえ」
「ああ、いいこと言ってくれた。ありがとうよ」
「武士の情けだよう」
 喜之助はソコソコの暮らしが大切と母から教えられてきた。「私雨というのですよ。私たちが何とか暮らせるのも、いろんな方のお力があってのことなのです」。
 なんだか、立身出世とは相容れない教育方針で日本人の魂が右往左往してしまうが、ともあれ、喜之助は、母が夜なべをして編んでくれた手袋をして、仕事に出かけるのであった。
 外に出ると、昵懇にしているおみつさんと一緒になった。
「おほほほほ」
 怪鳥のような声で、おみつさんがいきなり笑い出した。これが粋と野暮というものかもしれないと思いながら、永住町にさしかかった。
 なんだか、きまりが悪かった。それもそのはず、はばかりに行きたくなったのだ。
 道ばたで「親父、ひもじいよお」と泣いている子供を突き飛ばし、「『新解さん』が消した言葉はどうしよう」と考えながら、喜之助は、ほの暗い道を駆けに駆けた。
 切羽詰まって、映画館に飛び込むと、銀幕には、「ねえや、もしもし、日本の色は赤青黄色」と電話している男の姿が映っていた。


 ――完――


 あとがき


 ごめんなさい。


 後世の人々へ。


 ニッポン人の魂というものを忘れそうになったら、この小説を紐解いていただきたい。


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