利き腕

 先ほど、蒲団を干してパンパン叩いているときに(意外と家庭的な面があるのよね、ワシ)気づいたのだが、あの、パンパン叩く道具(何と呼ぶのだ?)を、わたしは左手で持つ。


 わたしは元々、左利きで、幼い時分に右利きに変えられたのだそうだ。


 つい左手を使うと、親は、蠅叩きでハタいたり、往復ビンタをくらわせたり、ムチで打ったり、逆さヅリにして井戸に漬けたり、石を一枚一枚重ねていったり、とりあえず自白剤を飲ませてみたり、と、ありとあらゆる形の愛情を注いで、右利きにしてくれたという(いずれ、親から受けた恩は返すのが子の義務だと思っている)。


 今は、無理に利き腕を変えるのはよくない、という意見が多いらしい。しかし、わたしが子どもの頃は、まだそうではなかった。


 わたしの頭の回路が変なふうにつながっているのは、きっと、子どもの頃に利き腕を変えさせられたせいなのだ。いろいろ、うまくいかないのは、そのせいなのだ。全ては親が悪いのだ。好都合なので、そういうことにしておくのだ。


 では、両方の手を使えるようになって得したかというと、そうではない。むしろ、どちらの手もロクに使えず、中途半端である。


 筆記具は右手で持つ。
 字は呆れるほど、下手クソである。ヘレン・ケラーが手に水を受けて、初めて、「ウ、ウ、ウ、ウォラ!」と言ったときと同じくらい、たどたどしい。


 証拠物件として、わたしが書いた文字を掲げる。



 右手を強制されたせいだ。わたしは悪くない。


 ドアは左手で開ける。ボールを投げたり、バットで打ったりは右だ。箸も右(これがまた、扱いが下手で、欧米人のミナサンに「オ〜、ドン・ウォリ〜ネ〜、ヨシ〜」と励まされる)。財布からお金を取り出すときは左。尻は右手で拭く(素手ではない)。


 逆の手でやってみると、それぞれ、違和感がある。


 どういう脈絡で左右、使い分けているのか、よくわからない。


 文化的な事柄(筆記、野球、箸、尻ふき)は右、本能的な事柄(ドアの開閉、お金の取り出し)は左、かとも、思った。
 しかし、ハサミは左手で扱う。ひげ剃りも左手だ。いつも血まみれになる。


 誰かから教わった事柄は右で行い、自分で始めた事柄は左で行っている、とも考えられるが、今となっては立証するすべもない。


 よく、右利きの人は論理的思考に優れ、左利きの人は直感や芸術に優れる、なんていうけど、現実は厳しい。


 どちらも打てないスイッチ・ヒッター。それがわたしだ。


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