目くじら

 まったくもっていかんではないか、と、久々に怒り狂って思うのである。今、オレに近づくなよ、ヤケドするぜ!


 何がって、新聞のベタ記事だったから、知る人は少ないだろうけど、昨日、こんなことがあったんだそうだ。


 宮城県浅野史郎知事が、宮城球場の改修工事現場を訪れ、観客席の解体を見て、「中越地震のようだ」と述べた。記者団から「不謹慎では」とただされたというのだ。


 カーッ、許せん。


 いや、浅野知事に対してではない。「不謹慎では」などと言い出した記者団に対してだ。
 んな小さいことで、いちいち目くじら立てるな、馬鹿野郎っ!


 と、目くじら立てた記者団に目くじら立てている私も、相当、どうかしているのだが。


 最近のことなのか、昔からそうなのかはわからないが、どうもこう、世の中にギスギスした空気があるのが気にくわない。


 ……という書き方をすると、さらにギスギスするので、いかんな。
 どうすればいいのか。ゆるんじゃえばいいのかな。


 なーんか、こう、コマいことっていうのかなー、そういうので不謹慎だとか、不適切だとか言い立てたりなんかするのって、どうもなあ。ちょーっと引っかかったくらいでカーッ、キーッ、クーッと騒いじゃったりすると、ねえ。なんつーんでしょうか、心がピリピリするんじゃないかなあ。でもってさあ、んー、そのピリピリって、他の人にも伝染してったりしてね、まあ、他ピリになっちゃったりすることもあったりなんかしたりしなかったりして、おやすみ。


 ああ、まどろっこしい。余計、イライラする。


 どうも、こういうことというのは、たとえば、中越地震の被災者自身よりも、第三者が余計に気を回して、ピリピリするものらしい。
 筒井康隆が例の断筆宣言のドタバタの際、てんかんの持病を持つ人よりも、他の人間のほうが激しく攻撃してきた、と何かで言っていた。てんかんの持病を持つ人はむしろおおらかに構えていた、とか。


 以前にも紹介したことがあるけれど、「フォルティ・タワーズ」のDVDに収められたインタビューの中で、コメディアンのジョン・クリーズがこう述べている。


とにかく僕は危険を感じる。規制の奨励に。その実態は強迫観念だ。修正するのはいい考えだと思うが、やりすぎは良くない。
何が危険かと言うと、あるグループの中で1人が特に神経質だとする。ほかの人たちより感情をうまく制御できない。神経質な人はすぐ怒るからみんな楽しめない。気楽に思いつきで話せなくなる。堅苦しい雰囲気になる。
神経質な人たちが社会を動かしたら、病的な社会に。一般的なことまで修正される。“神経質な人の常識”に塗り替えられる。


 ジョン・クリーズが語っているのは放送禁止用語についてだが、「不謹慎」、「ふざけるな」とされる事柄についても、共通して言えることだと思う。


 まあね、そりゃあ、あんまりひどい言い草っていうのもあるけれど。
 ただ、どうもこの、神経質な人々が突撃していって、仕方ないので他の人まで引っ張られていって、前線が前に出すぎているような気がする。


 ついでに紹介すると、ジョン・クリーズはこんなことも言っている。


悲劇は苦しむ人物に客が感情移入を、喜劇は距離を置いて笑い飛ばす。アンリ・ベルクソンは“喜劇に必要なのは同情心の[一時的な]忘却”と。人物を突き放して見ることだ。人物に愛情があってもね。でないと、哀れみしか味わえない。([一時的な]は、クリーズの英語での発言に基づいて、稲本が補足)


 ただし、新聞を読む限りでは、浅野知事の発言は、笑えるほどのものではなかったようだ。記者団は、「もっと面白いことを言え」と、そっちのほうをただすべきではなかったか。


 ところで、厚生労働省は今後、「痴呆」から「認知症」という呼称に切り替えていく方針らしい。「痴呆」には、蔑視的な印象があるからだそうだ。


 これは私自身にとってはありがたい。
 ちゃんと「認知症」という呼称が浸透すれば、おおっぴらに「痴呆」という言葉を蔑視的に使える(「認知症」の人以外に対してね)。
 「私は突如、痴呆と化し」などと書いても、叩かれずに済みそうだ。気がねがなくなる、というのは楽でよい。


 「認知症」というのは認知しまくるみたいで、実際の症状に対して「不適切」な気もする。
 が、まあ、少なくとも現時点では私にあまり関係ない話なので、目くじら立てるのはやめておく。


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