増田俊也著「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を読んだ。
- 作者: 増田俊也
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2011/09/30
- メディア: 単行本
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戦前から戦後にかけて不敗だった不世出の柔道家木村政彦についての本である。凄惨なKO負けを食らった力道山とのプロレスの試合が焦点となっているが、膨大なインタビューに支えられて木村政彦の柔道や人生、そして広く技術体系としての柔道についても語る内容となっている。最近読んだなかでは傑出したノンフィクションだった。
おれは柔道について知識らしい知識を持っていない。格闘技についてもあまりよく知らない。この本で書かれている、講道館とは別の柔道体系の高専柔道や武徳会についても知らなかった。
高専柔道というのは今の高専とは何の関係もない。戦前の高等学校や専門学校、すなわち今の大学にあたるのが高専で、その対抗戦を軸とした柔道が高専柔道である。高専柔道では寝技への引き込みが認められていたため、寝技とその防御法が非常に発達したという。そして、その技術はブラジリアン柔術やロシアのサンボに流れ込み、現在の総合格闘技に影響を与えている。
で、ここからおれの話は本を離れて飛躍するのだが、さまざまなジャンルにおいてわっと物事が多方面に向かって爆発的に進化する期間があるように思う。戦前の高専柔道における寝技がおそらくそうだし(学生達が工夫を重ねていく様は興味深い)、60年代から70年代のロックもそうだし、30年代および50〜60年代のジャズ、60年代〜80年代の家電、あるいは今でいえばインターネットの技術やサービスがそうだ。多くの試みがなされ、新しい技術やスタイルが次々に生まれ、それらが淘汰されてある体系となっていく。あるいは進化論のほうのカンブリア爆発というのもそうかもしれないし、芸術方面の安土桃山〜江戸初期というのもそうかもしれない。
あくまでおれのいっこう当てにならない直感で書くのだが、技術や表現ジャンルが萌芽の時期を過ぎると、「おお、こんなこともあんなこともできるんではないか」と参加するプレーヤー達が気づく瞬間があるのだと思う。で、各人わっせわっせとそれらやり口に取り組むと他のやり口と影響し合い、つぶし合い、あるいは取り入れ合って、少し引いた場所から見ると急速に進化するように見える。60年代のビートルズがあれだけいろんな音楽的試みに手を出して成功できたのはそうしたプロセスのど真ん中に位置取れたからだと思う。おそらくビートルズのメンバーが今の時代に生まれてロックをやってもあれだけ巨大な存在にはなれないだろう。
思うに、こうした爆発的進化が起きるとき、共通して3つの条件が揃っている。
1) いくつかの発見があって、技術上/表現上の展開可能性が見えてくる状況になる
2) プレーヤーが自由に参加でき、勝手にいろいろな実験が行える
3) プレーヤー間で何らかの形の勝負や比べ合いがある
2について言うと、わしら勝手にやるけん、口出しせんでちょうよ、ということが大切で、たとえば、「柔道やロックは国家の研究機関で計画的にやることになったから。今後は有象無象が手を出すことはあいならん」となったら、おそらくあまり爆発的な進化は起きないように思う。
3は、柔道でいえば試合であり、ロックや家電やインターネット技術・サービスでいえば市場競争(ファン獲得競争)である。試合やファン獲得競争というミクロな勝負の場でいろいろな試みがつぶし合いを行うことで、磨かれた技術や表現形ができあがっていく。おそらく、進化方面でも食う食われる逃げる追う隠れる見つけ出すというシビアな勝負が進化に預かって大きいのだろう。
この3つの条件をアシモフのロボット三原則に乗っ取って、イナモトの爆発進化三原則と呼ぼう。誰か、Wikipediaに書いてくれ。
しかし、一方で、物事どれも永久にわっと進化が爆発し続けるということはおそらくない。あ、もうこれより先にはあんまり行けないようです、アイデアももうあんまり出ません、後は少しずつ磨きをかけるくらいですかねー、という状況にたいがいはなる。今のロックもジャズも家電もそうだし、柔道もそんなように見える。もしかするとインターネット技術・サービスもいずれは低成長で「洗練」「低コスト化」だけが進むべき方向になる時期が来るのではないか。そうして、活気や熱気を求める人は別のジャンルに入っていって、わっせわっせと始めるのだ。それがこの世の理(ことわり)なんではないか。たぶん、おそらく、知らんけど。