発明の母

「必要は発明の母」と言われる。ひっくり返して、「発明は必要の母」とも言われる。後者は、とりあえず発明してしまったもんだから、あわてて(かどうだか知らないが)必要を掘り起こす場合で、製品・サービスが相当高いレベルになった現代ではよく見られるパターンだと思う。HD TVがわかりやすい例で、ブルーレイや、さらにさかのぼってDVDやCDにもそういうところがある(DVDとCDはうまく必要を掘り起こすことができたが)。

 昨日、ちょっとだけ触れた人間型ロボット。あれら、現時点ではどういう必要を見込んでいるのだろうか。

 もちろん、イベントなどの客寄せに使うという需要はある。しかし、物珍しさだけを当て込むマーケットは随分と小さいだろう。昔のSFに描かれたように、家庭用ロボットとして人間の生活に入り込む、という線もあるのかもしれないが、少なくともわたしはロボットと暮らしたいと思わない。暮らすのは人間と一緒がいい。ロボットと一緒に暮らす生活を何となくよさそうに思っている人たちだって、実際にそういうことになったら、そのうち飽きるか嫌気がさすんじゃないかと思う。気味悪くすら思えてくるかもしれない。

 ……ふと思ったのだが、ソニーAIBOを買った人、今はAIBOをどう扱っているのだろう?

 こんなネガティブなふうに書くのは、人間型ロボットを否定したいわけではなく、必要・需要がなくとも開発が進むことの不思議――開発に取り組む人たちの情熱・執心を思うからだ。おそらく、彼らの中では、必要・需要といったある種の打算はあまり大きなものではないのではないか。

 彼ら人間型ロボット開発者を突き動かしているものは何だろう。興味という言葉では弱すぎる。情熱・執心だけでは説明できない。「夢は発明の母」か。しかし、夢・情熱・執心のさらに大元になるものがあるはずで、わたしは今、それを言い表せる短い言葉を思いつかない。「○○は発明の母」。○○に入るのは何だろう。アイデア

 考えてみれば、例えば、Googleだって、最初の開発時点ではあまり必要・需要を重視していなかったんじゃないかと思う。創業者2人は、インターネット上の検索という必要・需要をもちろん考えていたろうけれども、誰かのために問題解決を図りたいというより、インターネットテクノロジーの分野でどでかいことを成し遂げるというエゴ的な理由で開発していったんじゃないかと思う。あるいは自分の得た素晴らしいアイデアを試してみたい、ということだったのか。それが幸運にも広告課金の手法と結びついたことで、経営が軌道に乗り、彼らのアイデアと野望の規模も広がり、現在に至っているんじゃないかと思う。

 現時点では何になるのかよくわからない人間型ロボットも、いずれは予想もしなかった使い道・マーケットと結びついて、ビジネスになるのかもしれない。「何の役に立つんだ?」という言葉は、飛躍を自ら封じたくないなら、技術の勃興期には抑えたほうがよいのだと思う。

 ところで、なんでロボットには顔を付けたくなるんでしょうね?

ザ・サーチ グーグルが世界を変えた

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