一色

 世の中、サッカー・ワールドカップ一色である。


 ――なんてことは本当はなくて、あまり/ほとんど/全くワールドカップに興味のない人もたくさんいるのだろう。


 ただ、そういう人は自分ではあまりあれやこれや言わないので、表に出ないのだ。


 しかも、マスメディアからすれば取材対象として面白くないうえ、スポンサーに対する売り物にもならないので、取り上げられない*1。「捨て置け」という存在なのである。


 それにしても、10年かそこらで世の中、随分、変わるものだと思う。


 まず準備段階として、1994年のワールドカップ・アメリカ大会があった。
 Jリーグの発足と、「ドーハの悲劇」で終わった予選があいまって、「サッカーのワールドカップというのは、どうやら凄いものらしい」ということが、日本でも広く知られるようになった。


 それまで、日本でワールドカップは、ごく一部のサッカー・ファンが楽しむ大会に過ぎなかった。深夜などにせいぜい何試合かが放送され、スポーツ・ニュースの1コーナーで取り上げられるかどうか、という程度だった。


 次のフランス大会(1998年)から、今のような大騒ぎになった。


 フランス大会が8年前。助走期のアメリカ大会からでも12年。それでこの大騒ぎ。
 さすが、源平の昔から、変わり身の早さを得意とする民族である、と、ちょっとあきれながらも、感心する。


 オセロが日本で生まれたのは、この素早い変わり身を得意とする民族性の故に違いない――かどうかは知らんけど。

*1:我々は生まれたときから売り物だってこと、知ってました?

早変わり

 まあ、ワールドカップは面白いので、全試合がテレビ中継され、マスメディアがいろいろな形で情報を流してくれるのは結構なことだ。


 一方で、同じ一色に染まっているもので、気になる言葉がある。
「格差」という、例のやつだ。


 確か、数年前までは、「構造改革」、「構造改革」と騒いでいなかったろうか?


 構造改革騒ぎ(祭?)のときは、自由競争派と、既得権益を持つ側が対立したけれども、世論は自由競争派のほうがかなり優勢だったと思う。


 自由競争が進めば、経済的格差が広がるのは当然だ。
 で、今度は「格差」、「格差」と来た。


構造改革」と騒いだと思ったら、今度は「格差」。
 どっちやねん、と、素早く大阪弁に変わり身して思うのである。


 まあ、そんなふうに振り子のように往復して修正しながら、世の中というものは進んでいく(のか、退いていくのか知らんけど)のかもしれない。
 が、こう簡単に早変わりして、いっせいに「格差」、「格差」と騒ぎ出すと、ちょっとどうよ、と思うのである。


 そりゃあ、経済的格差が広がりすぎると、いろいろ問題が起きるだろう。
 また、「格差」というキーワードを用意することで、世の中のありようを、ある形で切ってみせることもできるかもしれない。


 しかし、あくまで「ある形で」切ってみせられるだけであって、別の形の切り方だってきっとあるはずなのだ。ただ、その別の形の切り方には、なかなか焦点が当たらない。


 どうもこうね、一方から一方へと極端に振れすぎ、という気がするのだ。


 人々が踊り出すから政治家やマスメディアが踊り出すのか、政治家やマスメディアが踊り出すから人々が踊り出すのか。
 わたしは、腰を振りつつ、どっちやねん、と考えるのである。


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「今日の嘘八百」


嘘百六十七 健全な精神は健全な肉体に宿るということが、サッカー選手を見ているとよくわかる。