自由競争社会の医療

 先日、大腸の内視鏡検査を受けてきた。

 これまでも何度も受けていて、最初は確か二十代のときだったと思う。

 検査の前に大腸をからっぽにするために2リットルほどの下剤を飲む。我慢できないくらいの便意で、水のような便がピューッと出る。それがまあ、3、4時間。大腸の内視鏡検査の何が嫌って、この下剤だ。

 しかし、下剤の飲み口(という言い方も変だが)はだいぶ改良されてきたようだ。初めて飲んだ時は味はポカリスエットみたいだが、ドロッとしていて、なんとも飲みにくかった。今回のものはさらっとしていて、本当にポカリスエットみたいだった。

 嫌なもの、困るものはどんどん改善されていくのだなあ、と思う。自由競争社会では、嫌なもの、困るものを改善すればすなわち売れるから、物事は少なくとも近視眼的にはよくなっていく。

 思えば、医療というのは随分と乱暴なことをしてきたものだと思う。大腸の内視鏡検査だって、最初はずいぶん大変なものだったろう。太い管の先に結構大きなカメラがついていて、それを腸の中に無理くり突っ込んでいったのだと思う。下剤だって、飲みやすいものではなく、とにかく腸の中をクリアにするためにキツいのを飲ませたんだろう。

 麻酔のない時代の手術というのは今思えば恐ろしい。手なり、足なり、腹なりをガンガン切る。救うためにはそうするしかないから、患者の激痛は後回しだ。

 医療の優先順位というのは、おそらく、①命を救うこと、②病気・不具合を直すこと、③苦痛を感じさせないこと、なのだろうが、時代が変わってきて、しだいに③に重きを置かれてきているように思う。おそらく、③の需要が大きいからだ。

 尊厳死安楽死のとことを考えると、上記の①〜③の優先順序は変わりつつあるのかもしれない。山田風太郎が「人間臨終図巻」のなかで確か、「現代の死は病院で医学的拷問を受けながら迎える」というようなことを書いていた。苦痛の続く生と、苦痛を終わらせる死を考えるなら、もしかすると後者のほうがだんだんと重視されるようになってきているのかもしれない。