ニュースショーの手管

 先週、ニュースショーなどに煽られ、コーフンして行動する人々について書いた。行動すること自体はいいとも悪いとも言えないが、一時のコーフンで行動をとることは当事者への迷惑も含めて、まあ、あまりいい結果に結びつかないだろう。
 おれはほとんどテレビを見ないんだが、ごくまれにニュースショーを目にすることがある。そうして、ミニ・ドキュメンタリーとして編集されたビデオを見ると、「なんと! そんなことになっておったのか!」などとしばしばコーフンしてしまう。しばらく経ってから冷静にふりかえると、それまでその事件についてほとんど知りもしなかったのに、たかだか3分かそこらのビデオを見ただけで、事件について特定の見方を持ってしまうのだ。下手すると、「これは何かしなければいかんのではないか」などと己の愚かさも顧みずに思ってしまう。これを短慮と言わずして何とするか。
 まあしかし、コーフンするのは仕方ないとも言える。なぜなら、広告という動く看板を見せることを目的としているテレビ番組は、視聴者の情動を動かす、すなわちコーフンさせるように作られているからだ。コーフンして理性の働きの鈍っている間に物を売りつけてしまえ、というのがテレビ番組の手口で、香具師や優秀なセールスマンと基本線は同じである。ニュースショーとて例外ではない。というか、ニュースショー(まさにショーである)は独特のコーフンさせる手管というものを持っている。
 うさんくさいニュースショーを見つける簡単な方法がある。ドキュメンタリーの部分に効果音やBGMを使っているニュースショーは信じてはならない(見ないほうがよいとすらおれは思っている)。たとえば、ある詐欺事件があったとして、被害者がひっかかった瞬間に「パリーン」とガラスの割れたような効果音を使ったとする。これは、「ここで被害者の立場に立ちなさい。同情してあげなさい」という指示を視聴者に送っている。まだ詐欺事件は容疑に過ぎず、冤罪かもしれないのに、ショーではすでに視聴者が心理的にどのポジションをとるべきかを指示してしまっている。効果音もBGMもビデオの制作側が視聴者を心理的に誘導するための手管で、せいぜい一桁か十数人程度であろうビデオの制作者の物の見方、感じ方を何百万という人々に広めようとするものだ。そうして、まんまと引っかかってコーフンした人々が短慮の行動に走ったりする。これはちょっと異常な図式である。
 報道である以上、取材者の物の見方が反映するのは仕方がない。しかし、事実と取材者の意見の区別はできる限り明示すべきで、あるいは明示する努力をすべきで、効果音やBGMを使っているニュースショーは報道の名に値しないと思う。