ピース

 ゴールデンウィークに入って、観光地へと出かけ、“思い出の写真”を撮る人も多いことであろう。


 私は、ここで、ひとつ、問題提起をしたい。


 人は写真に撮られるとき、なぜピースをするのだろうか。


 必ずしも、平和を訴えたいからではないだろう。
 いや、世の中が平和になるのは結構なことなのだが、たとえば、観光に行った人達が、山中湖で、ディズニーランドで、ワイキキのビーチで、急に平和を願いたくなるとは思えない。別に願ったっていいけど。


 あるいは、「私は今、平和です」というアピールでもないだろう。実際には、頭ん中が平和なのかもしれないが。


 写真に撮られるとき、ついピースをしてしまうのは、日本人だけの習性ではないようだ。


 大ざっぱなことしか書けないが、テレビ番組で発展途上国の小学校を撮影すると、カメラに向かって、子供達が楽しそうにわーわーやりながら、ピースをすることが多い(気がする)。
 いや、先進国の小学校で子供達がピースをしたっていいし、実際、するのかもしれない。しかし、なぜか私の頭の中で、ピースをしているのは、発展途上国の小学校の子供達である。


 あれは何だろう。
 もし私だけのイメージでないとしたら、「発展途上でいろいろ厄介な問題も抱えているけれど、とりあえず子供達は元気です。地球の未来です」というテレビ番組側の意図なのかもしれない。


 謎が謎呼ぶ、ピース。


 Googleのイメージ検索で「peace sign」と検索すると、いろんな国の人達がピースをしている様が見られる。


google検索「peace sign」


 えーと、あの、鳥の足跡を丸で囲んだようなピースサインのほうがたくさん出てくるけど、無視してください。


 平和や勝利チャーチルのVサイン=Victory signから来ているのだろう)を訴えていると思われるものも多いけれど、それらを省くと、どうってことのない写真の、どうってことないピースが残る。


 そう、ピースの問題のひとつはそこにある。
 人がピースをしている写真の多くは、本人や家族以外にとって、どうでもいい写真なのだ。
 逆に言うと、どうでもいい写真において、人はピースをするのかもしれない。


 それにしても、なぜ、ピースなのか。


 ひとつには――これは前提条件というべきだろうが――人は写真に撮られるとき、どうも、何かのポーズをしなければならない、という強迫観念に襲われるらしい。
 なかなか自然体で、ぼわーっとしたまま、写真に撮られる気になれないらしいのだ。


 で、ポーズをとるとして、たとえば、ただ片手を挙げるだけでは宣誓するみたいだし、だからといって、両手を挙げるのは馬鹿みたいだ。というか、馬鹿だ。
 小指を立てるのでは、女ができたと自慢しているように見えてしまう。
 人差し指を曲げると、何だか、「これから、スリをいたします」と言っているみたいだ。


 そんなこんなで、ピースに落ちつくのだろうが、写真ができあがってから、さらなる問題が発生する。
 さっき、「ピースをしている写真の多くは、本人や家族以外にとって、どうでもいい写真」と書いた。これを人に見せたがる者どもが多いので、困る。


 写真を見せられると、今度は見せられた側が「何か、感想を述べなければ」という強迫観念に襲われてしまう。
 しかし、目の前にあるのは、フツーの人が観光地でピースをしている、どうでもいい写真だ。強迫観念に襲われたからといって、とりあえず自分がピースするわけにもいかない。それでは、意味不明なだけである。
 結局、「へえ、ああ、ハハ」とわけのわからない反応をするしかない。何かこう、人間としての尊厳を傷つけられたような気になる。


 突然ではあるが、私はここに、「観光写真におけるピース追放委員会(KSOPTI、クソプチ)」の設立を宣言するものである。



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