遠藤周作「深い河」は深いのかおれが浅いのか

 遠藤周作の晩年の作「深い河」を読んだ。

 

 

 遠藤周作は日本では少数派のキリスト教徒として育った。若い頃、ヨーロッパ(確かフランス)に留学し、文化の壁にぶちあたった。そのとき、おそらく、ヨーロッパのキリスト教のあり方、内容にも違和感を覚えたのだろう。その違和感は、この晩年の作にも綴られている。

「神」の意志、愛、働きかけとは何か、という一種の教養小説でもある。

 物語の前半は日本国内で、さまざまな男女がさまざまな出来事、体験からインド旅行のツアーに参加することを思い立つ。特にほぼ唯一の女性登場人物である美津子は、大学の頃に誘惑した神父志望の大津との関係も含めて、なかなか複雑な心理が描写される。大津は物語の終盤で重要な存在となる。

 物語の後半はインド旅行ツアーで、前半で出てきたさまざまな男女がインド世界を体験する。特に多くのヒンズー教徒が輪廻から抜け出るために最期の時を迎えようとやってくる聖地、ヴァーラーナスィでの出来事が中心となる。ヴァーラーナスィでは、インド中から集まった多くのヒンズー教徒たちがガンジス川で沐浴し、死体が焼かれ、川に流される。

 大津は、ヴァーラーナスィの町で瀕死のアウトカーストの者たちをガンジス川へと運ぶ仕事をしている。住んでいるのは売春宿。キリスト教の神父である大津がなぜヒンズー教徒の死の助けをしているのか、というのがこの小説のひとつの眼目である。遠藤周作なりの神の捉え方、宗教の捉え方が反映されている。

「深い河」を読むと、遠藤周作が一生、己の宗教について悩み続けたことが感じられる。その、ひとつの答えのかたちがこの小説で吐露されている。

 遠藤周作の考えでは、キリスト(イエス)は人々の苦しみを代わりに、あるいは一緒に背負った者であり、その生前に栄光はなかった。「正しい」人々を天国へと連れていく存在でも、来世で救う存在でもない。彼はただ苦しみを背負っただけである。そして、さまざまな宗教は全然別の様相を見せながら、実は同じものを別の角度からみているのではないか、と考える。遠藤周作の神はもしかすると創造主や唯一神ですらないかもしれない。

 これは、欧米で支配的なキリスト教の考え方とは違うものだろう。しかし、遠藤周作が一生をかけて彫琢してきた考え方であるから、読んでいて説得力がある。

 では、この作品が傑作かというと・・・おれにはあまりそうは思えなかった。

 遠藤周作の作品では、「沈黙」が一番優れていると思う(ったって、おれはそんなに遠藤作品をたくさん読んでないけど)。二度ほど読んで、二度とも圧倒された記憶がある。あの瞬間、おれは少しキリスト教徒になりかかっていたかもしれない。

「沈黙」で書かれた「神」観と「深い河」で書かれた「神」感は相通じる。しかし、少なくともおれは、「深い河」で圧倒されるところまではいかなかった。各登場人物にそれほど共感や同情を抱けなかったせいもあるかもしれない。

 まあ、そのあたり、人によって受け取るものはだいぶ違うだろう。その人の背景にもよるし、そのとき、そのときの精神状況にもよるだろう。

 ガンジス川は深く、歴史も深く、遠藤周作の思索も深い。しかし、「深い河」が深いかどうか、おれにはよくわからない。おれの読み方、おれの物の見方、あるいはおれの人生経験が浅いのかな?