カズオ・イシグロ「日の名残り」 信頼できない語り手

 英国の作家カズオ・イシグロの「日の名残り」を再読した。

 

 

 以前に読んだのはだいぶん昔である。以下、ネタバレありである。

 かつて英国の貴族ダーリントン卿に仕えた執事が第二次世界大戦の後、屋敷を買ったアメリカの富豪に仕えることになる。ダーリントン卿のものだった屋敷にそのままいついたかたちである。あるとき、屋敷の人手不足を解消するために、かつての女中頭ミス・ケントンに会いに自動車旅行に出る。英国の田舎をクルマで旅しながら、ダーリントン卿への敬慕や執事のあるべき姿、ミス・ケントンとの淡い恋(のようなもの)を思う、というような内容である。

 初めてのとき、おれは古き良き英国を追想する格調高い物語として読んだ。

 ところが、小説には「信頼できない語り手」という考え方があり、そのひとつの例として「日の名残り」があるということを知った。「信頼できない語り手」とは、なんらかの事情で語り手が客観的な真実を語っていない、ということであるらしい。そういう読み方をし直してみるとどんなものだべさ、というわけで再読することにしたのだ。

 なるほど、主人公の執事が客観的真実を語っていないと考えながら読むと、いろいろな話の綾が見えてきて、より深い読みができるように思えた。最初に読んだとき、おれは随分とぼんやり、うっかりしていたらしい。お恥ずかしい。

 主人公のかつての主人、ダーリントン卿は国際政治で重要な役割を果たした(と少なくとも主人公は考えている)。しかし、ドイツに肩入れし、ユダヤ人差別にも加担したため、後に世間の悪評にさらされ、失意のうちに亡くなった。

 主人公の執事は、ダーリントン卿の国際政治における重要な役割を自分が陰ながら支えたと誇りを持って振り返る。しかし、ダーリントン卿が国際政治にどれほど影響を与えたかは実はよくわからず、執事がかつての主人に肩入れ、過大評価しているようにも読める。過大評価は自分の仕事についてもそうで、執事の仕事が果たして国際政治の舞台にどれだけ影響力を持ちうるものか。

 自動車旅行の途中で、村人の家に泊まることになったときのエピソードが興味深い。主人公は服装のゆえに身分の高い人物と間違われ、それに乗っかって、まるで自分自身がかつて国際政治に深く関わったかのように語る。自分とダーリントン卿を同一視するかのような、主人公の自己肥大欲が表れるシーンだ。明らかに主人公の嘘なのだが、その嘘にいい心持ちになっているようである。このあたりで、主人公の「信頼できない」感じがあらわになってくる。

 主人公が、自分に思いを寄せていたかのように思っているミス・ケントン(かつての女中頭)についても同じである。主人公は彼女が不幸な境遇にあり、屋敷に戻りたがっていると思い込んでいるのだが、最後に会うミス・ケントンは冷たくはないにしろ、しごくあっさりと主人公に接する(初めて読んだとき、おれはこの部分の意味がよく理解できなかった)。

 あくまでおれの解釈だけれども、「信頼できない語り手」という考え方に立つと、主人公は現実を受け入れられないでいる。変わりゆく英国社会のなかで、貴族達は没落し、執事の必要性も低くなってしまった。かつての主人は社会的非難の対象となり、亡くなり、主人公は今は英国の流儀とは異質のアメリカ人富豪に仕えている。アメリカ人富豪にしてみれば、執事は英国趣味を味わうための玩具に過ぎない。

 そうした現実に対して、自尊心の高い主人公はいかに自分のかつての主人が立派な人物であり、いかに国際政治に影響を与え、いかに自分が執事としての品格を保って仕事を遂行し、いかに女中頭に慕われていたかを追想しつつ、物語として創り替えていく。記憶を塗り替えていく。いわば、「日の名残り」は現実と向き合えない、あるいは現実と向き合うことを恐れる主人公の自尊心の物語と捉えること「も」できる。

 しかし、カズオ・イシグロはそうした主人公を突き放すのではなく、温かい目で、同情を込め、時にユーモラスに描いてゆく。そうした筆致が作品に温かい奥行きを与えている。

 主人公は信頼できない語り手なのか。虚実あやなすなかで、主人公の思考や行動を、さまざまな想像をまじえながら読んでいく。それによって、「日の名残り」という小説は深みが増していくように思う。