大きな話と小さな話

 アマゾンのプライムビデオで映画「スリーピング・ボイス 沈黙の叫び」を見た。2011年のスペイン映画である。

 

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 検索でたまたま見つけたのだが、強烈な映画であった。

 YouTubeに予告編があった。

 

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 スペイン内戦終結直後、フランコが体制を握り、共和国派を掃討している時期が舞台となっている。スペイン共産党の闘士を夫に持つ姉は収監され、妹は姉を救おうと奔走する。自らは望まずに共産主義者間の連絡係を務めざるを得なくなる。姉は死刑宣告を受けるが、妊娠しており、獄中で出産する。そして、無情に……という、無理に要約するとそういう話である。

 姉妹の愛情、獄中で支え合う女囚たちの姿、慰め合う市井の人々のつながりが温かく、しかしそれで具体的に何かが解決するわけでもなく、哀しい。

 アマゾンのレビューを読むと、ファシズムカソリック教会側(刑務所で教育指導を行なっており、非情に描かれている)対共和国派・共産主義派という図式で語っている人たちが多い。違和感を覚えた。

 そういう「大きな話」をする人たちは目の前に置かれた悲惨さと情をどう思ったのだろうか。目の前で引き裂かれ、殺される人たちはその手の「大きな話」に翻弄され、時に踊らされ(主人公の姉は最後まで共産主義の信念に殉ずる)、握りつぶされる。「大きな話」の犠牲になった小さな人々である。

 体制側にも温かい人物はおり、最後に赤ん坊を抱えて姉と女性看守が交わす短い会話は救いのない映画のなかでほんの少し救いに似たものを感じさせる。看守は元教師で、息子を内戦で亡くし、生活のために仕方なく看守になったという。「大きな話」の結果、できあがった体制に従わざるを得なくなった人物である。

 やたらと冷酷に描かれるカソリック教会の尼たちも、神への信仰という「大きな話」の結果、非情を貫く立場になったように見える。

「大きな話」が不必要と言いたいわけではない。しかし、「大きな話」は時として非人間的な仕組みをつくりあげ、その犠牲になる悲惨な小さな人々が出てくる。

 最後に、映画の邦題だが、スペイン映画なのになぜカタカナ映画の「スリーピング・ボイス」なのだろう? おまけにその訳の「沈黙の叫び」という日本語サブタイトルまでついている。謎だ。現代は「LA VOZ DORMIDA」。