台所太平記の解説

 先週書いたように、谷崎潤一郎の「台所太平記」を楽しく読んだ。

 

 

 ところが、最後の「解説」を読んで、なんだか楽しさに水をさされたような心持ちになった。作家の松田青子という人が書いている。

細雪」で三女雪子の顔のシミが医者に「結婚すれば直る」と言われることについてふれ、続いて「台所太平記」で女中の梅の癲癇がやはり医者に「最も完全な治療法は、早く結婚することである。結婚さえすれば必ず治癒することは請け合いである」と言われることを受けて、

でた! とのけぞってしまう。

 しかも「最も完全な治療法」だなんて、どれだけ結婚は万能なのだ。

 と書く。

 その少し後では、

 今読むと、前述の「癲癇」にまつわる描写のほか、障害者差別や同性愛差別、動物虐待など、受け入れられない部分もあるが、私が『台所太平記』で好きなのは、彼女たちのその“半人前”の時代が、それがどうしたというばかりに、馬鹿馬鹿しいほど威勢がよくて、面白いからだ。

 これは何なのだろうか、と少し考えてしまった。

 台所太平記は昭和十年代から三十年代の話で、書かれたのは昭和三十七、八年である。現代の価値観で六十年前の生活感覚をあれこれ言ってどうなるのか、と思う。

 たとえば、江戸時代に侍が刀を差していたことに「武器を持ち歩いて物騒だ」という人もまずいないだろうし、結婚した女性がお歯黒を入れていたことについて「女性差別だ」という人もまずいないだろう。お殿様が側室を持っていたことに「一夫多妻制だ! けしからん」と断罪する人もおそらくあんまりいまい。

 ところが、明治、大正、昭和の小説となると、現代の価値観を持ち出してしまう人がいる。奇妙な話だ。

 少し話がそれるが、他の国の習俗や規範について「けしからん!」と怒り出す人もいる。それぞれの社会にはそれぞれの価値観や歴史の流れがあるのだから、脊髄反射的な断罪はよろしくない、とおれは思っている。時代の違いについてもまた同じだ。

 なお、谷崎潤一郎は解説者が差別的と感じる事柄について「そういうことがあった」と書いているだけで、特段の差別意識は見られない。あったとしてもその時代はそういう捉え方があったのだろう、という程度だ。

 さて、この後、「台所太平記」の解説では、エピソードの要約とそれについての「私はこう思った」が続く。こんな具合である。

とことん我が強く、その我の強さが、洗練されるごとにどんどんパワーアップしていく百合は、パニック映画のモンスターのようでおかしみもあるが、仔犬の描写がしんどい。偏食な彼女について語られる際の、女中たちのディテールに飛んだ食生活の描写が好きだ。

 この文に限らず、文章全体が「解説」ではなくて自分の「好き嫌い」である。読んでいて萎えてしまった。

 読後の読者に作品の背景情報を与えるなり、何らかの分析を試みるなりして、作品の理解を深めたり、別視点から光を与えるのが解説の役割だと思うのだが。だらだら書き流したあらすじや感想、好き嫌いを読まされても、すでに本篇を読んだ身としては困ってしまう。

 解説のかわりに感想を書いた本人も悪いと思うが、依頼した、あるいはできてきた文章にダメ出ししなかった編集者も悪いと思う。あるいは、文章のタイトルは「解説」でなく、正しく「感想」とするべきであった。

 楽しい本なのに、残念だった。