さまざまな時間の捉え方2

 前回、直線的な時間の捉え方について書いた。

 キリスト教イスラム教、ユダヤ教など、終末論の宗教がベースにある社会では直線的な時間の捉え方が主になり、「進歩していく」という考え方はそうした直線的な時間の捉え方から来ているように思う。イノベーションという考え方もそうだし、マルクス主義もそうだ。今の日本も、直線的な時間の捉え方が支配的だと思う。まあ、思いつきで書いているのであって、実証する力も根気もおれにはないが。

 江戸時代以前の社会では、よく知らないが、循環的な時間の捉え方が結構強かったのではないか。春夏秋冬、四季の変化もあるし、農業が産業のかなりの部分を占めていたせいもある。今でも「季節はめぐる」みたいな言い回しにどこかロマンチックな印象を抱きがちなのは、そうした循環的な時間の捉え方が日本に残っているからだと思う。一方で、人生方面では「老いる」ということが大きなテーマで(まあ、それはどこの社会でも同じだろうが)、小野小町光源氏に限らず、どうやら老いる、老いる、哀しい、哀しいと日本のあちこちで泣いていたようではある。

 伝統的なインドはどうだろう。住んだこともなければ行ったことすらないが、漏れ聞くあれやこれやではどうも欧米、日本とも違いそうだ。生まれ変わりということが根強く信じられているらしく、図的に言えば、直線(一生)の端と端が別の直線と斜めにつながっているような感じだろうか。さてさて。

 伝統的な中国も興味深い。儒教のほうでは過去を理想とする考え方も強かったようだ。といって、別にみんながみんな後ろ向きに歩いていくイメージでもないだろうし、一方で進歩バンザイ、でもなかったようだ(保守的な考え方が強かったようではある)。共産党が政治を握ってからは、進歩バンザイ、が表に出るようになり、また、経済発展にしたがって直線的な時間の捉え方も納得されてきているのだろうが。

 他の国、たとえば、ニカラグアでは、カメルーンでは、ベラルーシでは、アフガニスタンでは、パプアニューギニアでは、どんな時間の捉え方があるのだろう。ちょっと興味はわく。

 繰り返しになるが、例によって思いつきで書いた。責任は一切とらぬ。