未来志向への疑問

「未来」という言葉がやたらと幅を利かしておって、おれは天の邪鬼のせいか、疑惑のマナザシで眺めてしまうのである。

 先に書いたように10代の頃はおれのSF時期であって、未来ということに非常に興味を持っていた。20代の頃はパソコンやインターネットが出始めの頃で、実体験できる未来というものが手元に来て、しばしばコーフンした。しかし、30代の頃になると急激に興味を失い、勝手にやっててくれ、お互い死ぬときは別だ」と思うようになった。今も「未来」ということについては割と醒めた目で見ている。

「未来」ということがもてはやされるのは、テクノロジーが進化するということと、価値観や目にするもの耳にするものも変化する(進化なのかどうかはわからない)、社会のあり方もそれにつれて変化する、ということなのだろう。

 自由競争市場では、「新しい」「これまでにない」ということが非常に売りになるから、そういう必要に引っ張られて、人々が「未来」「未来」「未来」と無意識にする込まれているところもあると思う。

 しかし、とおれは思うのだ。現在にだって、あるいは残っている過去のものにだって、とても豊かなもの、面白いものはたくさんあり、それらを味わい尽くせていない。いや、味わっている部分はほんの少しだ、と思うのだ。味わっていないもの、知りもしないことは膨大にある。

 そんななかで、「未来」「未来」「未来」と追いかけるのはちょっと痩せた感じ方なんじゃないかと思うのだ。デブになりつつあるおれとしてはそう言いたい。