小学校高学年から中学くらいまで、やたらとSFを読んだ時期があって、今を去ること40年ほど前である。
おそらく、星新一あたりから入って(童話調のところが子供には入りやすかったのかもしれない)、筒井康隆で腰を抜かし、小松左京の壮大さにロマンを覚え、半村良の歴史とSFの合体にコーフンし、海外ではスタニスワフ・レム、ロバート・ハインライン、E・E・スミス、アイザック・アシモフ、フランク・ハーバート、H・G・ウェルズ等々、雑食であった。
そのさらに前をさかのぼると、おそらく子供向けの科学雑誌で「未来の暮らし」みたいなものを見たり、手塚治虫の火の鳥を読んだりが、おれのSFというか、未来イメージの原体験になっていると思う。
それらでは、エアカーとか、ムービングウォークとか、背負式ジェットとか、まあ、そんなような交通手段が未来のものとして想定されていた。実現されたものもあるし、実現されていないものもある。エアカーなんていうのは随分古典的な発想だけれども、いまだにできていない。ドローンが変わって最近ではのしてきた。
コンピュータはたいたい単体型で、ネットワークという発想はほとんどなかったと思う(ウィリアム・ギブソンが出てくるのは少し後だ)。世界が単体コンピュータに支配される、というのは定番で、一方で、人間に忠実な参謀としてのコンピュータというのもよく描かれた。
未来人の服装はというと、どういうわけか昔からレオタード的なものがよく描かれた。体にぴちっとくっつくイメージが未来的に思えたのだろうか。
しかし、とおれは思うのだ。あのレオタード調の服、中年太りの人間について、どう思っていたのだろう。ぽっこりと、しかもいささか重力に対して妥協してきている体型をレオタードで包むと、大変に見苦しい姿になると思うのだが。と、己の体のあちこちを眺めつつ思うのである。