痩せた土地に種を蒔く

 国立大学における人文科学系学問の縮小が話題になっている。文部科学省の資料をいくつか読んでみたが、例によっての官僚文章テクニックで焦点をとらえにくかった。が、どうも、特に国立の地方大学においては、卒業後、その地方に勤める際に役に立つ学問に力を入れよ、とのことであるらしい。
 おれが教育について語るなんぞ、アマガエルが天気図について語るくらい無茶な話なのだが、アマガエルなりに考えたことがあるので書く。
 文部科学省の国立大学改革の方針は、たぶん、卒業後に役に立ついわゆる「実学」的なものに力を入れよ、ということなんだろう。
 しかし、そもそも大学のいいところは市場における競争のような短期的成果を求められるプレッシャーとは離れて、中長期的に研究に取り組めることだろう。卒業後に役に立つようなものなら、企業が利益のために目をつけるはずでもある。
 実学は社会人になってからもOJT的に学んでいけるし、そのほうがむしろ身につく場合も多いだろう(この間まで高校生だった社会経験のない人間に、実学の勘所はつかみにくいと思う)。むしろ大学生はいろんな研究の入り口に入ってみて、そのいろんな研究を結びつけ、学問のネットワークみたいなものをまがりなりにも作ってみる経験が大事だと思う。
 たとえば、科学史なんていうのは実学的な意味では役に立たないように思える。しかし、たとえば、標準化、規格化がどういうふうに進展してきたかを知ることは(元々は18〜19世紀の軍用銃の組み立て方が基礎であるらしい。ネジの世界的な規格化や戦後のコンテナの発達なんかも面白い)、おそらく工業やソフトウェアの分野に進んだとき、あるいは別の分野であっても、ひょいと役に立つときが来るだろう。
 文部科学省の進めようとしている改革は農業にたとえるなら、「目に見えやすい」収穫を得るためには土を肥やすより種をたくさん蒔くことに力を入れるべきだ、と考えるようなものだと思う。こういう考え方をする人たちを合理的馬鹿(rational fools)と呼ぶのではないか。土地が年々痩せていって、収穫が増えるわけがない。
 もちろん、今の人文科学がそのままでいいというわけではない。今までの日本の人文科学が十分に土地を肥やしてきたのか、あやうくはある。そもそも人文科学とくくるのも意味のあることなのかよくわからない。そのあたりは見返してみるところではないかと思う。
 大学の初年度では複数の学問への入り口を案内し、学生はあちこちのぞいた上で一応の専門分野をだんだん決めていくのがいいんではないか。大学側は、学生が自分なりの学問のネットワークをつくるにはどのように学問の入り口をわかりやすく案内するかをもっと意図的に考えていくことが大事だとおれは思う。本来、教養課程というのはそういう理念でつくられたものなのだろうけれども、入試で学部が実質的に振り分けられ、学生も教員も学部や学科を意識してしまうため、教養課程の理念は形骸化しているのではないか。
 確か、国際基督教大学には学部がひとつしかなく、どの専修分野に進むかを学生が3年生に進む時点で決められる仕組みになっていたと思う。

→ 国際基督教大学 - 学部

 漠然と弁護士にでもなろうかと考えていた人間が数学の道に進むことだってあるだろうし、数学に興味のあった人間が弁護士になることだってあるだろう。ひとつの見識だと思う。