ソウルと文字

 木、金、土と仕事で韓国のソウルに行ってきた。ソウルに行くのは二回目で、おおよそ二十年ぶりくらいである。
 おれはハングルを全く読めない。一方で、韓国では90年代から原則的に国語をハングルのみで記すようにしたそうだから(それまでは日本の漢字仮名交じり文のように、漢字とハングルが文章の中で入り交じっている表記も多かった)、欧文を別とすれば、街なかはほぼハングルのみで、漢字はほんの少ししか見かけない。これがなかなか困るのだ。
 空港内の表記や地下鉄の自動券売機などは日本語もあるので困らない。しかし、地下鉄路線図などはハングルか欧文のみなので、乗り換え駅を確認するのに結構時間がかかる。日本でもそうだが、欧文はハングル(日本なら日本語)よりかなり小さく書いてあるので探しにくいのだ。日本語のできない外国人が日本旅行に来ると、こういう不便さを感じているのだなー、と思った。
 韓国の二十代の女性に訊くと、今でも学校で漢字を千文字くらい習うのだそうだ。ただ、実際に読んだり書いたりする機会が少ないから、せいぜい読めても、書けない文字が多いという(これは、日本でも、パソコンやIT機器類が普及してからはやや近い状況になっているが)。自分の名前を漢字で書ければまずオッケー、という感覚だそうだ。
 漢字の使用と理解が少なくなるということは漢字・ハングル併用時代の文書がだんだん読めなくなっていくということでもある。韓国の男性に「昔の小説とか読めなくなるんじゃないですかね」と訊いたら、「昔の小説なんか読みますか?」と訊き返された。もっとも、これは個人の趣味興味の問題かもしれない。
 考えてみれば、一般の日本人でも明治の言文一致体以前の日本語文を読むのはなかなかしんどい。戦前の旧字体も慣れないとちょっと難しい。そういう断絶が起きることを韓国では二十年前に決めたわけで(もっとも、韓国の場合は言葉遣いの問題ではなく、使用文字の問題だが)、これは文化における歴史的決断が比較的最近行われたということなのだろう。日本で置き換えてみれば、バブル期以前の新聞、雑誌、本、各種記録などを読むとき、大なり小なり努力が必要になるというようなことなんだと思う。
 いい悪いはおれにはわからない。単純なコミュニケーションや記録の問題だけでなく、ナショナリズムアイデンティティーの問題も関わっているのだろうと思う。
 文字を通じた過去の文化/記録との断絶という視点で、これからの韓国のいろんなシーンを見ていくのも面白いのではなかろうか。