無形文化遺産もほどほどにしてはどうか

 インターネット上でちらりと見た程度だが、和装をユネスコ無形文化遺産(世界無形文化遺産と呼ばれることもあるが、「世界」をつけるのは間違いである)に登録しようという動きがあるんだそうだ。京都の業界団体が中心になっているらしいが、今現在、どれほどの広がりを見せているのかは知らない。
 日本食が無形文化遺産に登録されたときも感じたのだが、この手の運動、ほどほどにしたらどうかと思う。理由は3つある。
 まずはそもそも論なのだが、世界中の無形文化をどういう基準で貴重かどうか判断するのだろうか。文化の相対性の観点からして甚だ疑問である。文化間でどちらが優れているといった評価は、受け取る人によって、あるいは同じ人でもタイミングや気分によって変わる。みそ汁とコンソメスープのどちらが優れているかなぞ決められるものではない。文化の優劣の絶対的評価は危険である。
 2つめに、これは語感の問題でもあるのだが、無形文化「遺産」と呼んだとたんに、それは死んだ文化、あるいは死にかけている文化のように感じてしまう。生きて、これから発展するようなものには思えない。残念ながら文楽がそうだ。文楽に実際に取り組んでいる演者の方々は一生懸命、芸として発展させようとしているのだろうが、「文楽無形文化遺産である」と呼んだとたんに、もう終わってしまったもののように感じてしまう。あるいは例えば、「落語が無形文化遺産に指定された」と仮に聞いたとすると、おれは聞く気が半減してしまう。これから動いていく勢い、何が出るのだろうというわくわくするような楽しみがなくなってしまうように感じるのだ。おそらく、本当に発展する勢いのある分野のものは無形文化遺産に登録されようなどとは考えないだろう。
 最後に、(世界)無形文化遺産に登録されたと喜ぶのはどうもあか抜けないというか、思い切って言うと、田舎くさい感覚のように思う。「田舎くさい」とあえて言うのは、昔の田舎の人が自分の住む周囲の狭い世界をもっぱら自分の情報の世界としていて、そこから出た者が外の世界で評価されたり、成功すると単純に喜んでしまう(一方で外の世界自体はよく知らないし、さほど興味もない)イメージと重なって見えるからである(おれも田舎生まれだ。この言い回し許してくれ)。まあ、多分に日本にはそういう感覚の人が多くいて、日本のものが海外で、というか、正確には欧米で評価されたと聞くと(インドネシアやメキシコやコートジボアールにおける評価が問われることはめったにない)、非常に喜んでしまう。これはおれの直感なのだが、おそらくは文明開化以来、日本の文化は欧米の文化にやられっぱなしというコンプレックスがあり、逆に日本の文化が評価されるとコンプレックスの裏返しで大喜びしてしまうのだろう。はっきり言って、微笑ましくもあり、みっともないとも思う。
 仮にユネスコ無形文化遺産に和装が登録されたとしても、それで和装が広まることはまずないと思う。それはすでに登録された日本食についても同じである。世のほとんどの人にとって、無形文化遺産に登録されたなんて、一時のニュースに過ぎない。広めるには、生きた人に生きた形で魅力を伝えることが重要である。無形文化遺産に登録されたところで、一時的に関係者がいい気分になり、補助金が多少無駄にどこかへ流れて終わりだろう。