「空気」の研究

 山本七平「『空気』の研究」を読んだ。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

 よく「今の空気」とか「空気を読む(読めない)」といった表現を耳にし、その空気の正体って何ダロナー、と前から興味を持っていた。
 山本七平によれば、空気は、一に問題が起きたときその背後に何かがいるという臨在感、二に善悪の判断の絶対化から生まれるという。
 山本七平は具体例として戦時中の戦艦大和の出撃と、執筆当時の公害問題を取り上げている。しかし、今となっては当時の空気を実感として捉えがたいので、比較的最近の例として東日本大震災直後の原発問題でおれなりに説明してみよう。
 TwitterFacebookをやっている方は感じたのではないかと思うが、福島第一原発の事故の二、三日後あたりからTwitterFacebookでは原発擁護をしにくい空気が生まれた。いや、原発擁護だけではなく、原発のリスクと防護策、効力を比較して判断することすら述べにくい空気となった。
 山本七平のいう臨在感というのは、原発問題の背後に何者か――神か霊のような何かがいるような感覚である。そして、その空気に反すると(例えば、日本の原発政策を擁護すると)、まるで神域を汚す罰あたりのような非難を浴びる(あるいは非難を浴びるような予感がする)のだ。逆に原発反対を唱えると共同体の一員と再確認してもらったような安心感が得られる。
 二つめの善悪の絶対化というのは、善かそうでなければ悪、と判断を両極端に振ってしまうことである。善が四、悪が六という相対的な判断はなく、善が十さもなければ悪が十とどちらかに決めつけてしまう姿勢である。先の反原発の空気でいえば、原発のリスクとリターンを比較して判断することすらタブー視してしまう。「原発は絶対に悪」という決めつけが行われ、それに少しでも反して語ると、金切り声に見舞われる。空気に多少なりとも反するには、そうした金切り声を覚悟する必要がある。
 いわば、原発事故の直後はTwitterFacebookに反原発神が降臨したのだろう。そうして、その前で原発を少しでも認める、あるいは認めかねない比較をすると、神域を汚したかのようににわかの氏子達に叩きのめされるのである。叩きのめす側からするとわずかな原発擁護のにおいですら不吉に感じるのだろう。それは客観的判断から来るものではなく、主観ですらなく、もっと奥のほうにあるどろどろしたところから来るもののようである。
 これはおれの考えだが、死のイメージがあるとこういう強力な空気が醸成されやすくなる。威のある神が降臨しやすくなるのだ。戦艦大和の出撃もそうだし、かつての公害問題(イタイイタイ病の頃)もそうだし、福島第一原発事故の頃もそうだし、あるいは少し前の高校生の自殺を端緒とする体罰問題のときもそうだった。死のイメージが強力な神を降ろした。「だって、人が死ぬんですよ」という言葉は強力な磁力を持つよりしろである。
 山本七平は日本におけるこうした空気の生まれやすさをアニミズムと結びつけている。空気の発生はあちこちに神がおり、また神が降りてくる社会の伝統であるらしい。
 ナルホド、と納得しながら、おれはちょっと考えた。たとえば、会社で会議が長引いたとする。結論は出ず、そろそろみんなうんざりしてくる。空気を読んだ司会役が「では、これについては懸案事項ということにして〜」などと曖昧に幕引きしようとして、みんなヤレヤレ、と思ったそのとき、「イヤ、今、徹底的に議論しておくべきでしょう。そもそもこの問題は〜」などと話を蒸し返すやつが出てきて、他の物は全員内心うんざり。そやつは後で「空気が読めない」などと陰口を叩かれる。さて、では、そんなうんざりした会議には「会議終了の神」が降臨しているのだろうか? それとも、こうした会議における空気と、先述したような問題において生まれる空気は別物なのだろうか?
 あるいは、山本七平はもっぱら西洋やアラブなどの一神教の社会と日本の社会を比較しているけれども、他のアニミズムの社会、例えば、タイやインドや台湾やハイチでも日本のように抗しがたい空気がしばしば生まれるのであろうか?
 興味深くはあるけれども、おれは愚かなうえに他国で長期間暮らしたこともなく、よくわからんのだ。ごめん。