少年の心をふりかえる

 実際のありように比べて世間の評価が高すぎるもののひとつに、少年の心があると思う。
「少年の心を持ち続ける」などという言い方は一般にはよい意味で捉えられるようだが、己が少年だった自分をふりかえるとロクなことをしなかったし、考えなかったと思うのだ。
 少年にもいくつかの段階があるが、小学生時代のおれは野っ原で虫を捕まえては足をむしりとっていたし、第二次性徴を迎えた後では同級生の胸のふくらみが気になってならん、というわけで、そんな少年の心を大人になっても持ち続けるのはいかがなものか、と思うのである。いい大人が野っ原で虫を捕まえては足をむしりとっているのも問題だし、周囲の女性の胸のふくらみが・・・というのは、まあ、今でもあんまり変わらないですね。ええ。少年の心でしょうか。
 いささかまじめに考えると、「少年の心」がもてはやされるのは、宣伝広告方面の感覚、もっと言うと資本主義経済システムの影響じゃないかと思う。いやどうも、突然物凄いものを持ち出して恐縮だが、つまりは少年の心を持っていてもらえると、しかも収入は大人の分があると、物を買ってもらえる、ということなんじゃないか。釣り道具とかカメラとか、今ならスマートホンもそうかもしれない。あるいは、高いスポーツカーも。あるいは、プロ野球のチケットなんかも。残念ながら本当の少年はあんまりお金を持っていないことが多いが、大人で、しかも少年の心なんぞを持っていると、お金があるからガンガン物を買ってくれそうである。
 想像していただきたい。今ほど資本主義経済(この言葉、どうもしっくりこないのだが、他にいい言葉が見あたらない)が普及していなかった江戸時代頃に、「いやあ、あの者は少年の心を持っていて立派である」なんていう言い方がまかり通ったであろうか。だから、「少年の心」なるものは、「物を買っての心」が生み出した都合のいい言い草だと思うのだ。