演歌の飛距離

 先日、友達と飲んでいて演歌の話になった。
 演歌の時代は終わったねえ、などとおれが知ったようなことを言うと、「でもさぁ、飛距離を考えてみろよ」と切り返された。ガキの時分に聞いた演歌が今でもしみ込んで残っている、というような意味である。なるほど、考えてみなかったが、確かにそうだ。
 これは、たぶん、世代差がかなりあるだろう。おれのような四十代だと、ガキだった70年代、80年代が演歌の全盛期であった。今のような劣化コピーのような演歌ではなく、歌それぞれがきちんと生きた形で存在していた。しかし、二十代くらいだともしかするとしみ込むように残っている演歌というのはあまりないかもしれない。
 おれは物事の活気理論というのを唱えている。さまざまなジャンルで、表現形式ややり口が爆発的に拡大する時期がある。音楽、美術、演劇、デザイン、家電、科学技術、学問分野、それぞれにそういう時期がある。いくつかの発見の後に技術上/表現上の展開可能性が見えてきて、大勢の参加者がそのジャンルに加わり、ミクロな競争、比べ合いが起こり、わっと技術/表現が拡大し、活気が生まれる。ロックの60年代〜80年代前半、ジャズの40年代後半〜60年代、家電の70年代〜90年代、インターネットサービスの2000年代〜現在が例えばそれにあたる。
 演歌について言うと、60年代〜80年代が爆発的発展の時期であろう。節回し、アレンジ、歌詞のテーマ、こぶしと歌詞の組み合わせにいろいろな発見と拡大があり、人々がそれに乗り、ジャンルとして熱があった。作っている側には「あ、あやつがああいうことをやったか。それじゃこっちはひとつ、こういうので」などという推進力があったろうと思う。
 演歌の場合は節のパターンにやはり制約があり、様式美の部分も大きいから比較的早くやり尽くされてしまった。あくまでおれの何となくの印象だが、今では様式をなぞるか、氷川きよしのような演歌のパロディのようなものがほとんどで、ジャンルとしての活気はないどころか、絶滅が危惧されるくらいである。
 もっとも、最初に書いたように演歌の飛距離は長い。ひとつの歌がずっと人の中に残るということがあり、節回しなのか、表現世界なのか、ともかく基本コンポーネントには生命力があるようにも思う。種が土の中で眠っていて、数年〜数十年後に条件が揃ったとき突如芽吹くように、突然別の形で噴出することもあるかもしれない。それはいわゆる演歌ではないかもしれないが、演歌と共通する部分を備えた何か。アメリカでも、ブルースはジャンルとしてはすでに活気を失っているが、その基本コンポーネントは別の形で生き残っているようである。同じことが演歌(の基にある何か)でも起こるかもしれない。