おれと単純化と人間集団の性格について

 物事を単純化して考えることにはいろいろと弊害があって、一番の害はきちんと物事のありようや他の要因を捉えられなくなることだと思う。そうして間違った結論や、見当外れな方策を導き出してしまうのだ。
 例えば、おれが女の子から「稲本さんて足が短ーい」と言われたとする。でもって、「おれがモテないのは足が短いからだ」と単純に結論づけて、アキラメてしまったり、生んでくれた親を理不尽に恨んだりしたとする。そうすると、モテないもっと根本的な原因である間抜けさや気遣いの足りなさ、行儀の悪さ、振る舞いのカッコウ悪さ、自己中心ぶり、顔の配列の奇抜さ、肌の汚さ、口の悪さ、服のセンスの悪さ、ぞんざいさ、運動神経の鈍さ、手先の不器用さ、腹のまわりの脂肪層の分厚さ、毛深さ、目やに、におい、不健康さ、生活力の欠如、やる気の不足、頭の悪さなどに目が行かなくなる。おれがモテないといっても、原因はこのくらい、あるいはそれ以上にあって、しかもそれらが複雑微妙に絡み合っているのである。足が短いなどという単一の理由に帰せられるものではない。
 単純化といえば、「○○人は○○である」という話はしばしば非常に単純化される。よくあるケースは、たまたま出くわした○○人の印象を、そのまま○○人全体の性質と考えてしまうことである。たとえば、旅行先でたまたま会ったアメリカ人のおばちゃんが親切だったので、「アメリカ人は親切である」と結論づけてしまう。あるいはバーでアメリカ人のおっさんに難癖つけられて挙げ句の果ては真珠湾の話なんぞ持ち出されたら「アメリカ人は攻撃的である」などと考えてしまう。実際にはどこの国、どこの社会だっていろいろな人がいるわけで、たとえば、日本人にだって二宮金次郎みたいなリッパな人もいれば、おれみたいに足が短くて、間抜けで気遣いが足りず、行儀が悪く、振る舞いがカッコウ悪く、自己中心的で、顔の配列が奇抜で、肌が汚く、口が悪く、服のセンスが悪く、ぞんざいで、運動神経が鈍く、手先が不器用で、腹のまわりの脂肪層が分厚く、毛深く、目やにがひどく、におい、不健康で、生活力が欠如しており、やる気が不足しており、頭の悪い人間だっている。
 人間のある集団が他とは違った価値観や行動パターンの傾向を持っている場合、そこからある種の考え方や感じ方を構造化して抽出できるかもしれないが、素人の場合その作業はよほど注意して行わないと、見当外れの結論や、過度の単純化に結びついてしまう。まあ、直感的には素人はあまり手を出さないほうがよさそうである。
 ネット方面で、○○人はどうたらこうたら、という話を目にすることが多いが、たいていはあまりに単純化しすぎていて、真面目に読む気になれない。売られた喧嘩は買う、みたいなことになっている場合もあるようだが、馬鹿なことをしている相手に同じレベルの馬鹿さに自分を引き下げて対抗してどうするのかと思う。
 人間はなぜ物事を単純化して考えるのか? ひとつには単純化して考えていることに自分で気づいていない場合もあるだろうし、ひとつにはそもそも単純化しないと己の頭のレベルでは消化できないという場合もあるだろう。前者の場合はよくよく考えてみればよい話だから救いがある。後者の場合は困ったもので、たとえば、今のこの話もだいぶ単純化して語っているのだが、それはおれの頭が悪いからである。