鼻くそのにおいの仮説

 googleで「鼻くそのにおい」と検索すると、このブログの記事がトップに来る。ちょっと大げさに言えば、このブログは現在、「鼻くそのにおい」(という文字列)について世界で最も注目されているブログなのである。……と言っても過言ではない。……とまで言うのはまあ過言だが、どういう検索アルゴリズムの歪みか失敗のゆえなのか、そういう結果に今のところなっている。

 その記事で何を書いたかと言えば、くだらない疑問で、鼻くそは鼻の中にあるときにおいがしないが、ほじくり出して鼻に近づけるとにおいがする。これは不思議なことではないか、というような内容である。

 でもって、先日、突然、天啓があった。どうせなら、人生の隠れた意味とか、神から人間へのメッセージとか、向こう五百年間愛唱されるメロディであるとか、そういう天啓のほうがありがたいのだが、しょせんおれに降りてくる天啓は、鼻くそ程度である。

 どういう天啓かというと、我々は、鼻で、刺激そのものというより差異を感じ取っているのではないか、ということだ。少し前の時点と現時点でのミクロな物質による刺激の差、それがにおいという感覚の正体ではないか。

 鼻くそのにおいに即して言うと、こうなる。鼻の中にへばりついているとき、鼻の中は、鼻くそ物質による刺激を受け続けている。しかしながら、

t1(ある時点の刺激量)−t0(少し前の時点の刺激量)=0

 であるからして、においを感じない。しかし、鼻から鼻くそをほじって鼻に近づけた場合は、

t1−t0>0

 となるから、においを感じる。と、そういうことではないか。

 人間は自分の体のにおいとか、住んでいる家のにおいに案外気づかないが、これは

t1−t0=0

 に近い状態だからかもしれない。

 いや、自分の家のにおいなんかは帰ってきたときにも気づかないことが多いから、刺激の差だけでは説明できないか……。ここらへん、もう少ししつこく考えたほうがよさそうだ。

 以上はあくまで仮説だ。仮に刺激の差こそがにおいの感覚の正体なのだとしても、刺激の差のみを感覚として受け取っているのが、鼻の感覚器官なのか、それとも感覚器官から情報を受け取って処理する神経組織・脳なのかはわからない。

 ともあれ、鼻くそひとつ取ってもなめていいものではない。そこには、人体という複雑怪奇な機構の絡み合った機能や情報処理ルールが隠れているのかもしれないのだから。

 そして、物理的な意味でも、単に行儀という点でも、鼻くそをなめるのはあまりよいことではない。