談志の複雑さ

 立川談志を嫌う人は少なくない。「あいつはどうも気に入らない」という感覚は素直なものだからそれはそれでいいと思うが、一方で、表面的な印象や、言動への反感だけで聞かないのももったいない気がする。あの人には人間の複雑微妙な心の動きがよく表れているし、また、それを芸の表現として表に出していて、それが魅力になっているからだ。

 談志が偉そうなのは確かだ。もっとも、本人は「偉そうなんじゃなくて、偉いんだ」と言うかもしれないが……。偉そうに振る舞うのは、自負もあるし、自意識もあるし、肥大した自我もあるし、意気地もあるし、欲目もあるし、それから照れ隠しの部分もあると思う。芸人というのは歴史的にどこか蔑まれてきたところがあって、また、芸人自らがわざと卑下してみせたところもある。談志は、観客に対する芸人のそういう卑屈な演技が我慢ならなかったのではないか。そうして、自分がいくらかのことを成し遂げたという自負もあって、わざと偉そうに振る舞ってみせる。尊大に振る舞わないと照れてしまうのだろう(一方で、誠実な観客に対しては驚くほど誠実である)。

 照れは談志の大きな要素で、つまりは自分を客観的に見ているということなのだろう。傍若無人に振る舞って見えるときでさえ、談志には常に自分を観察している冷酷なもうひとりの自分がいる。その冷酷な自分は芸をチェックしていて、言い回しの間違いの細かな指摘から内容的な評価まで行っている(談志が落語の途中でよく自分に茶々を入れるのはそのせいである)。例えば、談志は気分屋で気むずかしいから、時々、人に対してひどく乱暴になるけれども、それですら、冷酷なほうの談志は「ほらまた乱暴になってやがる。ひでえもんだ」とせせら笑っている。そうして、おそらくは一人で煩悶しているのだと思う。

 芸の型や話の内容的な作り方もさることながら、談志の魅力は、その人間の複雑微妙さ、そしてそれを表にさらけ出すところにあると思う。スパイシーな料理であって、スパイスというのはそれだけ舐めればたいがいぺっぺっぺとなるし、摂取しすぎれば毒になる。その毒っぽさを嫌う人もいるんだろうが、そもそも刺激が強いからこそスパイシーな料理は美味い。逆に、唐辛子に慣れると中途半端な唐辛子の量では物足りなく感じられるように、談志の刺激に慣れると、刺激の薄いものがつまらなく感じられてくる。

 いわゆる「古典芸能」っぽい感覚の視点から談志の落語を批判するのは的外れだろう。それはいわばインド料理屋で「お吸い物を出さない!」と文句を言っているようなものだから。いや、談志はそもそもお吸い物の世界から出てきた人だから、出そうと思えばお吸い物だって出せるのだろうが、よほど気が向かないと出す気になれないのだろう。そういうややこしさを透かして見せるところがまた、談志の魅力だと思う。談志というややこしい人間の複雑微妙さを味わうのが、談志の落語の楽しみのひとつだと思う。