神話について

 ツイッターを見ていて、次の記事に行き当たった。結構ツイートされているようである。

→ 世界で最も人気がある国、ニッポン

 いろいろと疑問の多い主張だと思う。以下、ランダムに。

 日本の学校記紀神話を教えていないというのは確かにそうだろうけど、わたしが思うに、日本はむしろ今でも非常に神話伝説の流布している国だと思う。信玄謙信の川中島の戦いとか、信長、秀吉、家康とか、ああいう戦国話はほとんどの人にとって実際は神話伝説的な働きをしているし、昨年の龍馬伝のように幕末のあれやこれやも建国の神話みたいな形で広まっている。その手の話が今、どういう形で日本の人に受容されているかを考えてみれば、「神話」とは呼ばれていないが、実際には神話化している話が日本には非常に多いことがわかると思う。

 神話=記紀神話と位置づけるべきかも疑問である。たとえば、本居宣長以前に、古事記の内容や存在そのものがいったいどのくらい知られていたのだろうか。日本書紀系の神話についても、どれほど知られていたのか疑問である。記紀神話に通じる部分部分の神話はもしかすると地域の神社の由来のような形で伝わっていたのかもしれないが、全体を建国のお話として伝えるようなことがどのくらい行われていたのか、普通に考えるとよほどの特殊な地位の人々以外ではあまりなさそうである。まあ、このあたりはちゃんと調べてみたことがないので、カンで書いているのだけれども。

 GHQが悪い、みたいな話については、まあ、そういう面もあるのかもしれないが、この記事を読んだ範囲では単純化のしすぎだと思う。戦後の意識の変化みたいな世の中の漠とした物事というのはいろいろな因果関係がいろんな方向、量を持つベクトルのような形で引っ張り合って(か、押し合ってかどうだか知らないが)、全体としてずりずり動いていくのであって、単一の理由に帰せられるということはまずない。言えるとしたら、せいぜい「〜という面もある」ということくらいだろう。話の歯切れはどうしたって悪くなるが、まあ、そういうものなんだから仕方がない。単純化、単一化は理解した心持ちにはなるけれども、実際には理解から離れていく行為だろう。場合によっては、その人の考える能力や意欲が推し量られてしまうので、単純化、単一化は危険でもある。

 この手の話が受けるのはわかる。分解してみると、「誇りを持ちたい」「安心したい」「犯人を見つけたい」「愛情を確認したい」「顔を見知っているあやつをやっつけたい」「ムシャクシャを解消したい」、といったところだろうか。文明開化以来の積年のコンプレックス、「負けてたまるかニッポン男児」「欧米人になりたいけどなれないみたいなの」のような心理も関係しているかもしれない。