伝説の働き

 先日書いた「雑兵たちの戦場」のような本を読むと、我々の――とあえていっしょくたにさせていただくが――持っている戦国時代の知識とかイメージというのは何なのだろうかと思う。

【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777))

【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777))

 大河ドラマとか歴史小説、あるいは歴史ムック本が扱うような戦国時代の話というのは多くが戦国大名の戦ばなしで、信玄と謙信が川中島でどうしたとか、城作りがどうであったかとか、姉川の合戦で秀吉が云々とか、その手の話が多い。補助的に民政の話が出ることはあるが基本的には大名の視点であって、大規模な治水工事を大名が指揮した云々とか、年貢は四公六民で云々とか、せいぜいその程度である。そこに現実の人が蠢くディテールはない。

 戦国時代の大名の話は国や城を取った取られたという話が多いけれども、実際には、今日の国際紛争による領土の増減とは随分具合が違ったようだ。領主の勢力圏と勢力圏の間には両方の大名に年貢を半分ずつ納める半手の村というのが結構あって、領主としても何かと物入りな戦をやって白黒決着つけるよりは半分でも年貢をもらっておいたほうがよいという判断もあったらしい。あるいは、「国を治める」といっても実際には国の中の大小の領主をある程度勢力圏に組み入れているという形が多く、今日の県知事が県内全体を収めているというのとはすこぶる勝手が違ったようである。

 司馬遼太郎が書くような華々しい戦ばなしは人気があるけれども、あれの役目、機能というのは、歴史について語るというよりも、英雄の伝説について語るということではないかと思う。日本神話のヤマトタケルの逸話や、ギリシア神話ペルセウスの逸話がかつて果たしたろう役目と同じようなことを今日の日本の男たちに対して果たしていると思うのだ。英雄伝説には、英雄の身の上の紆余曲折と、象徴的に埋め込まれた教訓があり、出自・帰属の意識や自己投影を通じてアイデンティティーを形成するという働きがある。戦国好きの人々は、夜空の星々の配置に、信玄や謙信、信長、毛利元就の星座を見出してみてはどうだろう。

 司馬遼太郎の英雄戦ばなしの代表作「坂の上の雲」が日本の熱き血潮のますらお達にとってどのような象徴的意味作用を持っているか、文化人類学者が研究したらなかなか興味深い成果を得られると思うのだが、いかがだろうか。