自由主義的水滸伝

 一昨日書いたように、かつての中華人民共和国ではマルクス主義史観で水滸伝を解釈することが行われたという(すべて高島俊男著「水滸伝の世界」からの受け売りである)。梁山泊は農民起義軍であり、黒旋風李逵のあだ名は人民の反侵略闘争の政治思想を表現したものであり、水滸伝は農民起義を描いた偉大な英雄史詩である――という主張は、現代の日本に住むわたしからすると、相当強引であり、言ってしまえば無茶であり、滑稽にすら映る。

 しかし一方で、そうやって「こじつけだよなあ」と笑っているわたしはどうなのか、とも思う。例えば、同じく「水滸伝の世界」からのこんな一節――。

 水滸伝の主要なテーマの一つは「自由」である。
 水滸伝では「自由」は多く「快活(コワイホ)」という語であらわされる。「快活(コワイホ)」は「思いのまま」「無拘束」といった意味を持つ語であり、同時に「さばさばした愉快な気分」という語感をも帯びている。つまり「たのしく愉快で、何者にもしばられぬ気ままな状態」が「快活(コワイホ)」である。

 こういう文章を読むと、わたしなぞつい「そうか、水滸伝は自由についての物語であったか!」と膝を叩いて感動してしまうのだが、冷静になってみると、さてどうなのだろう。

 現代の日本に住むわたしは、ハリウッド大作映画を筆頭とする「自由だ!」、「自由を求めるのだ!」などという言い様に、反射的に感動するようになってしまっている。自由菌に感染しているとでもいうか。

 もちろん、自由というのは結構な部分の多い状態なのだが(わたしだって足かせを嵌めてムチでしばかれたくはない)、しかし、現代の日本で素晴らしいとされる「自由」と、水滸伝の豪傑達の「自由」はだいぶ異なっているように思う。

 水滸伝の豪傑達の自由は、己の体力と武術と男伊達で獲得した山賊の自由であって、矩を外れるという意味では(昔の)パンクロッカーの自由みたいなものに近い。世の中が山賊とパンクロッカーで占められてはやはり困るのであって、乳幼児の死亡率は低くあってほしいし、お百姓さんにはちゃんとお米を作っていただきたいし、物流業の皆さんにはそれをきちんと運んでいただきたいし、店に行けば買える状態にしておいていただきたい、と思うのである。

 うっかりすると、わたしも現代の日本で価値あるとされる「自由」と、水滸伝の「自由」をすり替えてしまいかねない。これは、かつての中国共産党とその意を体した学者達が、水滸伝は農民革命の物語である、と主張したのと、あまり変わらないのではないかと、ここに自己批判いたします。

 何が言いたいかというと、他人の家のにおいはすぐに気がつくけれども、自分の家のにおいは慣れてしまって案外、気がつかないということであります。

水滸伝の世界 (ちくま文庫)

水滸伝の世界 (ちくま文庫)